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    <title>ブラ日記</title>
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    <updated>2008-06-29T20:30:03Z</updated>
    <subtitle>月刊ハコのblogです。</subtitle>
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    <title>夏の始め</title>
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    <published>2008-06-29T20:29:11Z</published>
    <updated>2008-06-29T20:30:03Z</updated>
    
    <summary>月日は百代の過客にして・・娑羅双樹の花の色・・と 古典の授業で覚えたフレーズがと...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
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        月日は百代の過客にして・・娑羅双樹の花の色・・と
古典の授業で覚えたフレーズがとぎれとぎれにしか思い出せない。
こんな時、さっと手に本を取れないのがもどかしく、インターネットででも
探せば早いのだろうが、どうも気のりがせず、電話ででも
実家の母に聞こうかと思う。

何ごとも変化しないものはなく、”流れる水のごとし”？
人と人との関係も、自分も、他人も、いつも変わっていっているのだから、
今日と明日が違うように、一瞬前と一瞬後も違っているのだろう。

誰かの老いを見ることなどはその変化の流圧を肌に
感じるきっかけになるけれど、本当は、あたり前のようにそばにいる人や、自分のまわりに
あるものの中に、またはもっともっと近い、自分の中に、
ひたひたとした変化があるのかもしれない。

昨年クリスマスから新年にかけて大げんかをしたパオラと私も、
”元通りになった”　わけではなくて、お互いの何かが変わって、
（少なくとも私は彼女に）よりまっすぐに向かいあえるようになった。
ずいぶんと親しかったトニーとヴェスナとは電話の一本もしない仲になってしまったけれど、
多くの年上の友人が言うように、そうなるべきだったんならそれも受け入れるべきことなんだろう。

ブラの街には約１年前に大きなショッピングセンターができて、その影響と
一般的な経済状態の悪さから小さな商店がいくつか閉じていく。
たとえショッピングセンターが
できていなくてもたぶん同じように立ちゆかなくなっていたような店ばかりだったから、
力ある他の商店（パン屋、肉屋、文房具屋、お菓子屋、手芸品屋・・・）は土曜など
順番待ちするほどまだまだ活気がある。けれど、
パンの味がどこか落ちた店があったり、いつも買っていた
量り売りハムの質が気がつかない程度にでもやっぱり変わったり、
親父が亡くなって代替わりをしたせいか
以前は置いてなかったようなできあいのパスタソースを
陳列棚に置くようになったり、
新装開店をして妙にけばけばしいいでたちの安っぽいカフェになったり、
これも、一時として同じことなんてない。

私の家では相変わらず冷蔵庫の調子が悪く扇風機はひんまがったままだし、
家電機器の面では何も進歩していないけれど、本棚をもらってきて
散乱していた読みものを整理したら、
今まで数ヶ月間も見なかったようなスペースが室内に生まれて驚いた。
一方、近所のティナおばさんから昔々もらった赤い自転車は
おかしな音をたてるようになったので、
自転車屋さんで直してもらってタイヤのゴム交換までしてもらって
また快調になった。

そうかと思えば、さし向かいの人間関係の中で、
血縁でも旧友でもない「他人」をそばに生きることによって、
ふたをしてきた「自分」があぶり出されていく。
レモン汁で書いた筆文字が炎という外力でうかびあがってくるように
（確か昔そんな実験をした）、なるべく見ないようにしていた部分まで、
形を持って現れてきてしまう。
そんなことも、変化のうちのひとつだろう。

きっと、人は他人がいなかったら糸の切れた凧のようになって、
自分の位置がわからなくなってしまうんじゃないだろうか。
誰かが地上でその凧糸をあやつっているのではなく、
きっと揺れる凧と凧の間どうしにひもがあって、その凧はまた別の無数の凧と
つながっていて、（直接つながっていなくても）その様々な凧
がしるべのようにあるから、人は、どこかへ飛んでいって消えてしまったりしない。

それはびんと張ったしばり合う糸ではなくて、
かなりゆるんだ、あそびのある「連なり」で、
そうでなければ相手が立ち位置を変えたり変化したりするのが、
びんびん糸にひびきすぎて、許せないだろう。

そんなことを思うのも、関係の中で生きる密度が濃い、ここだからだろうか。
誰ともしゃべらずに一日を過ごすこともできる都会だったら感じずにすむ
感情、同調、反発、その反応に対するまた反応。

それが街を作るなら、やっぱりこの街もいつも動いて変動しているのだ。
そしてその変動要因に私もこの人もあの人も含まれている。

いらいらして電話してくる女友達も、
病院に連れられて行った３階のおばあさんも、
そのおばあさんの行く末を私に聞くワイン屋さんも（ワインをいつも配達していた）、
私に穴の開きやすいストッキングを売った下着店も、
郵便局で汗をかきながら窓口で働くおばさんも、
交差点でぶつかりあった２台の車も・・・
夏のおいしい冷たいコーヒーも安売りの熟しすぎたパイナップルも。

そんなことを考える夏の始まりは、いつもよりじっくりと
過ぎていきそうです。

また次の季節に！

脇山美伸
        
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    <title>外国崇拝（がいこくすうはい）</title>
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    <published>2008-04-05T12:36:58Z</published>
    <updated>2008-04-05T20:38:56Z</updated>
    
    <summary>この間まで元気だと思っていた人があれよあれよという間にいなくなったり、 寝たきり...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        この間まで元気だと思っていた人があれよあれよという間にいなくなったり、
寝たきりになったり老人リハビリセンターに移動したりした。
冬から春の変わり目はやっぱり自然のうごめく時で、
木陰に走るトカゲたちや幹のむきだしの肌に木の芽を連ねる樹木だけじゃなくって、
人間も、風邪を引いたり体調を崩したり熱を出したり、
弱っていたらその影響を大きく受けたり、するのだろう。

寒さのおかげか1・2月とずいぶん集中できた私も、
３月暖かくなってくるにつれて
気持ちがゆるんできたような、眠くなってきたような、でも同時に
首が固くなってしまったり、気持ちが散まんになり
やらなくてもいいことをいくつもやってみたり、
春が近づいているんだからそんな自分の変動もしょうがない・・と
数日かかってやっと思い当たる。

1月の末に、久しぶりに会ったリナと散歩した時は、
夜道が霧でいっぱいで１０メートル先も見えないほどだった。
霧の湿り気で寒さもいっそう体に冷たく感じる。
何も見えない！とふたりでいいながら、パン屋まで歩いて、
安売りスーパーに寄って豚肉を買って、
前日のクスクスを温めて食べたのだった。

その時から考えれば今は、サマータイムで1時間時計の
針を遅らせたせいもあって、夜の８時でもまだ明るい。
日光にあたってじっとしていると、風がなければ暖かい。

ハイな時期とローな時期を交互にくり返すリナは、
1月に電話してきた時は、まだローの最中にあった。
何度か電話しても出なかったり、
携帯メールにも返事が来ないから、予想はしていた。
「散歩に行かない？」と携帯に聞こえてくる声がその日必死だったから、
気持ちが落ちている時は確かに一本の電話さえ
決意がいることが、私にも思い出された。

冬と春を（春というよりもむしろ夏を）早いスパンで交互に経験する彼女は、
私の春への脱皮がもぞもぞと心地悪いなんてほどではないだろう。
それでも、履歴書を書いて送ったり面接に行ったりしているうちに、
小学校の遠足を引率する単発の仕事を見つけたから、えらい。

今年から、うそっこのおつきあいに私がある量以上興味を持てないと
友人たちが悟ってくれたせいか、余計なぐちや中傷を聞いたりして
無駄に時間を使うことが少なくなった。
さみしいような気もするが、これでヨロシイとも思う。
同時に、最近ブラからトリノへ引っ越したミレラのうちに一泊寄せてもらった時、
彼女がいちばん親しい女友達に愚痴をこぼしていたら
「怒られた」という。
友達にさえそれができなかったら誰に言ったらいいわけ？
いつも同じ文句をくり返しているのは自分だってわかっているけど、
それ以外の在り方ができないのは自分だって悔しいんだから、
「とれない通信簿の点数をとれって言われたようなかんじ」。

確かに彼女の言うことも一理あって、
友達だったら「通信簿の悪さだって引き受ける」って態度が、
（寛容さというのか？）必要な場合もある・・・。
（私の通信簿の悪さは、どのように引き受けられているのだろう？）

彼女の家にはトリノの映画館で夜遅く終わる映画が見たかったら
泊めてもらったのだが、
満席なのは活気があっていいものの、活気がありすぎるぐらい
上映中に皆よくしゃべる。
テーマが１９世紀の「イタリア統一」でよく知られた映画だったから、
それぞれに言いたいことがあるのはいいけれど、お祈りのシーンに、
いっしょに客席からお祈りを唱えるおじいさんには
始めてお目にかかった。
あまりにうるさい人には、「シー！」という声が飛んだり
「静粛に！」と言ったりあの手この手がつくされるけれど、
よっぽど映画が面白くなってこない限り、たいてい無駄に終わる。
（確かに怒られると、かえってしゃべりたい気分をあおるのかもしれない。）
それに対してミレラによれば、「セキがきく」。
ゴホゴホッ！ゴホゴホッ！と正面むかってわざとらしくせきをするのだ。

そんな風にかしましかったり、怒鳴るようにまくしたてて話したり、
いらないことをただくり返したりする、
ある意味イタリア語の表現性からくる特質なのかもしれないけれど、
それが鼻について（耳について）うるさく感じられた時に、
映画館近くのフランス書籍専門店に入ると、
なんともつつましい品のある空気が流れていて、ひと息つく。

1月の末にリナが「フランス語なら、いっしょに勉強してもいいよ」と言った時、
ようやく上空からオーケーが出たような気持ちだった。
数年前からフランス語に手をつけてみたかったけれど、
イタリア語さえしっかりできていないうちでは混乱しそうだったし、
適当な先生も見つからなかった。

外国の言葉を勉強するのって、
——久しぶりに「住む土地以外の言葉を学ぶ」私は思う——楽しいものだ。
1日５分でも、その時間は旅行しているような気分だし、
今いる場所のもろもろのしがらみやムヅカシイことなど忘れて、
「あなたのスカートはどこですか？」
「いすの上を見てみて。そこにあります。」
なんて会話に頭をひねっているだけで（最初のうちは）いい。
発音さえ違うから、いつもは
注意もせずに使っているくちびるや息、口の形に気持ちを集中させる。

Je　”ジュ”＝「私」の音が腹の底からなかなか言えない私に、
リナが「ノー！！ジュウウ！」と
何度も訂正してくれるのだが、こればっかりは合格点がなかなかもらえない。
「ジュの歌を歌えばいい！」と彼女が言うから、
「ジュの歌って、何？」と聞くと、
「ジュ、ジュ、ジュジュジュジュ・・・・！」と即興を始めた。

ここピエモンテ州はフランスと距離が近く、
期間の長さはさておきフランス経験のある人が少なくないせいか、
何かしらここでうまくいかないことがあると
「フランスだったら！」というセリフを聞くことがある。
この集合住宅で火事があった時も、
「フランスだったら、一晩すぐにホテルを用意してくれて
住民がキャンピングカーで寝る事態なんか避けられただろう。」
イタリアの電車は遅れるしうまく動かないが
「フランスだったら、そんなことはない。自転車だって安価で乗せられる。」
フランスからイタリアに移って来たアフリカ系の人たちは
「フランスの方がよかった。滞在許可証の事務手続きも整っている。」
映画関係では「イタリアにはまとまった金を動かせるプロデューサーが少ない。
しかしフランスにはたくさんいる。」

それらの言葉がどこまで現実で、
どこまでふくらんだ話なのかはさておき、
イタリアでいろいろなことがうまくいっていないのは、事実だ。
今に始まった話じゃないのかもしれないが、今うまくいっていないだけでなく、
これからもっとうまくいかなくなるような兆しがいよいよ見えているから、
人々が悲観的になるのも根拠がないことじゃない。

請求金が正しいかどうかさえわからない電気・ガス代、理不尽な税金、
パンからガソリンまではねあがった値段、数週間待たされる病院での検査、
回収のうまくいかないゴミ、老人介護は自費、アリタリア航空の売却・・・
個人的なうらみつらみで政局が一変し、あれよあれよという間にまた選挙・・・。

「イタリアが大好き！」で引っ越したわけではない私は、
特にショックも落胆もしないけれど、
さすがに最近は、「こんな国に移住して、後悔しないわけ？」と私に
聞く人々に答える言葉もない。

いくらブラが自分の場所だと思っても、
「もし将来ここで自分の仕事ができなくなるんだったら、
他へ行くしかないだろう」と2月にある人に話していたのは、
なまじ「仮の話」ではなく、いつか現実になってしまうかもしれない。
実際そうやってイタリアは、少しずつ若い人を失っていくのかもしれない。

そうかと思うと、ブラにある２つの大きなラミネート工場のうち、ひとつは、
最近オランダ資本に買い取られた。流れ出て行くだけじゃなくって、
中でも、大切な部分が溶けていっている・・・。

フランス書籍店の女性に勧められた６０年代の古いフランス映画を2本見た。
1本は美しく静ひつな世界だったけれど、
もう一本は正反対にうるさくかしましかった。
結局はそこもここもそうは変わらないわけだ・・・！と忘れていたことを、
映画館の席から立ち上がりながら思い出し、苦笑する。
フランス語だって、今は内容がわからないから音楽のように聞こえるけれど、
ひとことひとことわかるようになったら、イタリア語のかしましさどころか、
ひどく理屈っぽくて耳につくんだろう・・・と予想する。
マルセーユを舞台にした最近の映画では、
港町の人々のゴシップぶりがブラ以上に「筋金入り」で、
それでも最後には助けあってしまうところが、どこか似ていた。

「絶対イタリアから出たい・・！」とくり返す２０代の写真家に、
老いた３０代の私はつい、「かといって、他の国ですべてが
うまくいっているってわけでもないと思うよ・・・」
とつぶやいてみたりもする。一方で、ブラで家族親戚友人に囲まれて
快適に過ごしている若者には、「外に出たら？」なんて言いたくもなる。

くりかえすくしゃみと鼻水、体のこわばりに衝撃を与えるように３月半ば、
高熱がやってきて、ぐったりと放心した。そのおかげで、大改革をしたように
冬の体勢もぬぎされて、新しい在り方になったようだった。

イタリアにも高熱がやってくればいいのに・・・そうでなければくしゃみと鼻水だけで
中途半端に不快が続くだけで、いつまでもぐじゅぐじゅと変わらない。

「イタリアに住んでるなんていいなあ」と言われると、
「何が」実際に、いいのか？と問いたくなる。
来週の選挙に向けてくりひろげられている街頭演説などに出かけるから
（選挙権は悔しいけれど、ないです）、
余計思いめぐらしてしまうのかもしれません。

日本の新しい季節は、どうでしょうか？

脇山美伸
        
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    <title>みそか</title>
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    <published>2007-12-31T13:55:34Z</published>
    <updated>2008-01-08T15:56:47Z</updated>
    
    <summary>イタリアのサッカーチーム「ミラン」が、日本で開催された 大会で優勝したということ...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        <![CDATA[イタリアのサッカーチーム「ミラン」が、日本で開催された
大会で優勝したということで、私の乗ったチューリッヒ行き飛行機
はミランの追っかけでいっぱいだった。
中年の男性が大半を占めるそのグループは多少ガラが悪く、
大声で歌うは、数人で立って歩き回るは、おやつ用のお菓子を
わしづかみで持っていくは、行儀がいいとは言えない。
帰りの飛行機に乗ってすぐにイタリアの
空気を感じさせてくれたといったら、聞こえはいいか。

チューリッヒからミラノへ乗り換えて、そこからまた彼らが歌う
手拍子付き応援歌？が長かった。
滞在許可証が切れる一日前ぎりぎりで入国し
何か聞かれるんじゃないかと心配している私に、制服の入国審査員が、

「イタリアに住んでるの？」
「はい。」
「どこ？」
「・・ピエモンテ。」（やっぱり何か言われるんだ！とどきどきしている）
「ふむ。・・ところで、イタリア人はマナーを守って行儀がいい？」
「（変な質問だ）・・・飛行機の上ではぜんぜん。」
すると、背中合わせに座っている同僚に向って
「ほらやっぱり！」
——追っかけの人たちが機上でどんな風だったか、
というのが彼らの話題だったらしい。

一年に一回ほどしか帰らないから今までそんなに何度も往復したわけではないが、
それでもスーツケースの準備の仕方や、20キロの重量制限にひっかからないように
荷物をあきらめる術、
前もって船便を送り出す段取りなどさすがに上達したと思う。
１１月ブラから飛ぶ時はスーツケースごと青果市場まで持って行って
あらかじめ何キロあるか計ってあったし、出発前日なのに時間にも余裕があって
教会の夕方のミサにまで顔を出した。（たまたまディーノのお父さんの命日が
近かった。）

それにしては、日本に着いてからもこちらに着いてからも、
どうもすぐに適応できているような、できていないような
中途半端な状態が数日続く。
１年を経ず１１ヶ月ぶりに帰った今回は、JRのスイカにもすぐ慣れたし、
東京の地下鉄路線図もだいたい思い出せたし、
やっぱり長年育っただけはあると思っていたのだが、
やはり最初のうちは、台所の棚の玄米茶の置き場所が頭ではわかっていても、
すっと手が伸びなかい。受話器の向こうのオペレーターの丁寧な話し方に
慣れない。もしくは主語の欠けたあいまいな話し方にいらつく。
逆にこちらに帰ってくると、自分の台所でどうやってお茶を入れていたのか、
茶こしはいつもどこに置いていたかなどを忘れている。
道で近所の人とよもやま話をすると、ひどく時間の無駄のような気がする。
パスタを作ってもなんだか勢いが足りなくて、気の抜けた味になる。
どちらの地に着いても、しばらくは、
新調した服を着る着心地の悪さのような、がさごそした気分がする。

たぶん以前は、移動直後にどんどんと予定を入れて
空港から都内へ直行したりするのも体力で乗り切っていたから、
そんな居心地の悪さを味わう暇もなかっただろう。
ただ、どうやらそれよりは、
今４年が経って一方の生活が根強くなればなるだけ、
そこから自分をひっぱがした時の
ショックが強いのではないか、とブラに帰ってきてから
ーーまだどことなく混乱している頭でーー結論づけた。

夏から秋にかけて自分のことで精一杯だった私は、ずいぶんと
ブラの友達づきあいを犠牲にした。
「犠牲にした」なんて本人は本当は思っていないのだが、
周囲の数人は「犠牲にされた」と感じたらしく、
なぜいっしょに時間を過ごせないのか、
なぜ今までのように明るい顔をしていないのか、
なぜご飯を食べにこないのか・・等々
私が日本へ出発する直前から不満が聞こえ始めた。
ひとりひとりやることがある時はそれをやるのがいいのではないか、
と思う私にとっては寝耳に水だったが、私の側でも反省すべきことは
あるのかもしれない、実際怖い顔もしていたかもしれない、など
自分の考えをまとめるのに、ここ2ヶ月たいそうエネルギーを使った。

それは「イタリア人だから」とか「日本人だから」意見が違う、
ということではなさそうだった。
ここでもそれぞれの人がそれぞれの距離感を持っているし、
私のブラの友達の中には、別に長く会わなくても
変わりなく友達のままという人ももちろんいる。

それはきっと、「あなた」の人生と「わたし」の人生をごっちゃにすることで、
そこに友情とか愛情とかいう言葉でおくるみをかぶせているだけだ、
と私は思う。

抗議主たちひとりひとりになぜそのように思ったのか聞き、
私がどのように思うのかーーまたひとりひとりへ
違った言葉でーー手紙や対面で伝えようとすることは、
私という人間をよりノミでくっきりと削っていくような、
重みのある作業だった。
おかげさまで、自分がもっとはっきりしたとも言えるけど、
その分だけ相手との境界線がくっきりとして、
どうも寂しさが増したように思う。

厳しいことを言って、「相手に」ノミをふるった、か。
それはすれすれのところで方向を変え、「相手に」向かって、
相手を「削って」しまう。
でもやはり、私は自分へ向ってノミをふったのだと、
今思えば、確認できる。

クリスマスや大晦日は、そんなテーマを詰め込んだ頭とは関係なく、
「みんなで過ごすもの」として到来する。
今年もディーノの実家で、彼のお母さんとお姉さん家族と
蒸し鶏肉などを食べて、１１歳のシルヴィアにはipod
とカレンダーとお手玉と歴史の本が贈られた。
私の作ったかぶの酢の物と伊達巻きも予想をうわまわって
好評で、盆と正月ならぬクリスマスと正月がいっぺんに（少なくとも食卓上には）
来たようだった。

３年前に「等身大人形バルバラ」
をもらって喜んでいたシルヴィアが、
次の年には任天堂DS、今年はipodだからずいぶん進化したようだが、
本人はやっぱりipodを自分で使いこなせない。
さっき私の所に来て、やっとはじめてバッテリーが充電できた。

日本に住んでいた時、そばなど食べてひとりで過ごすおおみそかが好きだった私は、
新旧の移り変わりをわいわいと過ごすこちらの習慣に、どうもなじめない。
どうしても誰かの家へよばれていったり、友達どうしで集まったり、
または誰かがあそびに来て夜ふかしをしておおみそかが終わる。
ディーノも私と同じく「しみじみ派」なくせに、
今年もやっぱり「いつもなかなか会えない友達がみそかパーティーをするから」
ふたりして夕食によばれていく。

それでもやはり、会う機会があることが、
貴いことなのだろう。

明日はお赤飯を炊いて少し気分を出してみよう。

それでは２００８年、さらにもっとよい年でありますように。

脇山美伸


ーーお知らせーー
１１月にオンラインテレビ「Ourplanet-TV」より
インタビューを受けました。
<a href="http://www.ourplanet-tv.org" title="Ourplanet-TV">Ourplanet-TV</a> 

で、Cont Actの中の、羊の群れが川を渡っている静止画をクリックすると、
インタビューが見られます。
和やかな雰囲気にすっかり気を許してしまった私は、
禁句の「この映画作るの大変でした」を言ってしまっている。
大変はずかしいです。
さらにはイタリアの歴史、コムーネ期の世紀をおおはばに間違え、１２世紀または１３世紀と
言うべきところを１６世紀などと言っているので、顔から火を出しつつそれも訂正です。
２００８年は、もっと勉強します！

「羊飼いといっしょに」のDVD（４５分NTSC)の注文は、
「チーズポケットブック」など食関係の本を編集している
<a href="http://www.tamagosha.com/" title="有限会社たまご社">たまご社</a> 

が受け付けています。
メール宛先はttt@tamagosha.comです。

その他、東京都西荻窪の本屋　（ほびっと村内）<a href="http://www.nabra.co.jp/hobbit/" title="ナワプラサード">ナワプラサード</a> 
同じく西荻窪のカフェ<a href="http://www.rum-lamb.com/" title="三月の羊">三月の羊</a> 

で販売されています。

もしDVDを店頭などに置いて下さる方がいらっしゃったら、どうぞ
minobu@hako-house.comかttt@tamagosha.com まで
ご連絡、ご紹介下さい。

＿＿＿＿＿＿＿＿]]>
        
    </content>
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    <title>もしできなかったら？</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://hako-house.com/blog/2007/11/もしできなかったら？.html" />
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    <published>2007-11-09T13:29:20Z</published>
    <updated>2007-11-09T18:27:34Z</updated>
    
    <summary>夏の暑い盛りにビールを飲みながら、夕ご飯の食卓で ディーノと私はDVDカバーの話...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        夏の暑い盛りにビールを飲みながら、夕ご飯の食卓で
ディーノと私はDVDカバーの話ばかりしていた。

年内にしあげるはずの、「羊飼いといっしょに」のDVDに、
説明を含めたカバーをつけなければいけない。日本語、イタリア語、英語の
３カ国語でそれぞれ別のカバーを作る。

普通のあのプラスチックケースが嫌で、
どうしても紙製のカバーが作りたかった私は、
レストランやカフェで皿の下に敷く「わらの紙」と
呼ばれる紙やら、
花火工場やラミネート工場で使われるクラフトペーパーという
茶色の紙まで、様々な「山風の茶色い紙」を探しまわり、
それにどのように説明を載せるか、中にDVDをどのようにはめこむか、どんな
サイズの・厚さのビニール袋が手に入るか、印刷所はどこがいいのか・・、
ゼロから考え始めた。

「それでもさ、もし何もいいデザインができなかったらどうしよう」
と夏休みに入ったばかりのディーノが、恐る恐る聞く。
できますよ、信じてるんだからと断言して、
逆に「信じてるなんて言われると、もっと心配になる」と彼は言う。

たしかに今回DVDカバーを作る担当になってしまったディーノは
プロのデザイナーでもなく、
写真のコラージュをデジタルでするのが好きというだけだから、よく考えれば
何もいい案が出てこないってこともありえる。
それならそれでまたそこから考えよう、と思った。

羊飼いたちの住む山の写真を撮って、
その輪郭をカバーの中心に組み込むことだけは決まった。
それがディーノは、手持ちの「マイラ谷の山の写真」
などを使いたがり、「（彼らの住む）ジェッソ谷の山の写真じゃないと駄目」
と言ってもなかなかわかってくれない。
たまたまジェッソ谷のいい輪郭を映像の中に見つけたからよかった
ようなものの、そうでなければマイラ谷の山がカバーの中に
組まれるところだった。

より大切な外側のデザインが決まらず、
ああでもこうでもないと毎晩コンピューターの前で議論をする。
ここでも彼は、違う羊飼いの羊の
写真などを使いそうになるから、
誰が見てもわかんないって言っても羊飼いと私にはわかる・・と
何度もくり返す必要があった。

せっかく彼も夏休みなんだしスイスの湖に３日だけ行くことにした
が、このまま「カバーデザイン決まらず」
で出発することになるか・・と思われた。
出発前夜もうすべての案は出尽くして、この羊の顔を入れてもだめ、
あの山羊の群れを入れても駄目、という時
「ご飯食べて心を落ち着けよう」と一時私たちは
コンピュータの前から退散した。

「あの群れの写真、上からペンでなぞってみれば」と台所でディーノが言い、
食べ終わった後に、半信半疑で写真をイラストの線におこしてみると、
なかなか良いではないか。

そこにINSIEME COI PASTORI 「羊飼いといっしょ」に　
の手書きタイトル字を組み込んで、なんとか大枠はできた。

チーズや地域についての説明文をイタリア語でまず書いた私は、
それを元高校の先生のイレーネに直してもらい、コンピューターで打って、
そこにまた透明ビニールをかぶせ、黒ペンでなぞっていく。
そしてそれをスキャンし、組み込んでいく。
コンピューターの文字が並ぶ印刷物、
寒々しいカバーを作りたくないからだとはいえ、
なんともおおがかりなことだった。

逃げるように出発したスイスでは、人口のグリュエール貯水湖で
牛たちの鈴の音が響くのに気持ちがゆるんだ。
雨が降っている夜だけは、からんころんいう音が聞こえてこず、
寝ころがっていても雨かな？とわかる。

小さなギャラリーを
やりながらその2階をベッド＆ブレックファストにしているミリアは、
びっこを引いている。交通事故にあった後人生を変えて、
「もちろん大変だったけど、そのおかげで本当に好きな
仕事にめぐりあえたんだから幸運だった」と言っていた。
部屋は屋根裏の、飾りっけもなく簡素なものだったけれど、居心地がよかった。

ブラに戻り、近所の印刷所に注文してあった茶系の紙を確認しにいった。
（やはり紙の持ち込みは難しいと判断して、「わらの紙」やクラフトペーパー
は使わないことにしたのだ。）
顔見知りのおじさんがやっている印刷所で、
まあ話もしなれているし４０年の歴史ある印刷所だから、
と８月頭にこの印刷所を選んだのだった。

ところが届いた紙を見ると、これが注文したものと違う。

「ミヌ、”だいたい” いっしょだよ。」
「”だいたい” いっしょでも、違う紙でしょ！」
・・そこから、「だいたいいっしょ」などという印刷工は信じられず、
お互いの健康のためにもその印刷所にはバイバイをしたが、
はてどこの印刷所へ行くべきか。私がまだひとりで運転できないことを
考えると、ブラの中で選ばないと作業が追いにくい。
ブラには小さな印刷所が２つ、中規模の印刷所が２つあり、
市のイベントの刷り物から、工場の製品ラベル、
商店の名刺からポスター、それから地元出版社の本まで、
様々なものが印刷されている。

日数が限られている中できるだけ経験談・情報を集めると、
「サンミケーレ集落にあるC印刷所は他にくらべて少し高い目」だが、
きちんと仕事の指示を出すようにすれば、良い仕事をする、と聞く。

夕方１８時もう印刷所が閉まりそうな時間だったけれど、明日まで
待っていることもできずその日のうちにかけつける。
印刷工バルベロ氏がたまたまそこにいて、
カタログを見ながら熱心に紙を選ぶのにつきあってくれた。
紙を注文し、見積もりをもらい、提出ファイルについて確認し、
やっと印刷所が決まった！

思えば、「注文した紙と違う紙が届いてしまった」のは、私たちにとっては
幸運以外の何ものでもない。
あのまま印刷工程へ進んで何か問題が起こっても、
先の段階では印刷所を変えるのは無理だったろう。
紙が注文品と違うのを認めないような人とでは、コミュニケーションも
うまくいくはずがない。
キリスト教徒じゃなくとも、天よありがとうと、十字を切りたくなる思いだった。

９月の２１日からブラで始まるチーズのフェスティバルにまにあうよう、
よなよな、今日は「リコッタと、ピエモンテ州について」
今日は「音楽についてと、映画のあらすじ」と
手書きの文章をスキャンしてとりこむ。
きれいにスキャンできない文字の細かいところなどは
フォトショップできれいにしていくのがディーノ氏の仕事で、
ひとつひとつの文字を追うのは大変な作業だったに違いない。
私の方はイタリア語版のDVDのコピーを済ませ、
チーズ祭り中企画した上映場所に、できあがった
イタリア語版のDVDを置くことができた。

夏の終わり、そして秋の始まりのチーズ祭り、
今年は天気にも恵まれて大勢の人が町をうめた。
町の中心ではなかった上映場所までわざわざ来てくれた少数の人たちは、
山で暮らしていたことのある老女性だったり、
オーストラリアの山羊チーズ生産者だったり、子供が学校に行った後に
ひとりで来てくれた母親だったり・・
たぶん、これからはこのように上映をしていけばいいのだ、
という確信が私には持てた。
私の知らない山のバターの作り方、古くなったミルクから
できる子供のおやつの作り方をおばあさんが教えてくれたり、
そばに親がいて色々解説しながら見せれば小学生の子供にも
問題なく理解できるらしいということも、今回初めてわかった。
私にとっては、１０００人の通りすがりの人に興味本位で見てもらうより、
本当に見る理由のある少数の人が見てくれて、
その人たちと話すことができる方がうれしかった。

チーズ祭りが終わって、息つく間もなくローマへ行って帰ってきて、すぐに
日本語版と英語版の翻訳と手書き、スキャン作業に入る。

「もし、終わらなかったらどうしよう」
またそんな不安げなことを、ディーノがある晩会社から帰ってくるなり言うから、
「終わらなかったら、日本への出発をのばせばいいんじゃない？」と言うと、
ご飯も食べずに、すぐにコンピューターに向って作業をこなし始める。
確かに手書きのもの、それも彼は日本語が読めないわけだから、
ページに割り付けしていくのは、目がみえないまま進むようで難しいだろう。
もうお米をゆでるお湯もわいてるんですけどという時に、
「ぜんぶ組み終わった！」と晴れ晴れした顔で台所に現れた。やる気になれば、早い。

おととい訪れた州立公園の山の事務所は、秋の色に囲まれていてきれいだった。
刷りあがったDVDカバー３種を届けると、
担当のヴィラーニ氏がしげしげと州立公園のロゴを
見ながら、
こんな風に、日本語の中に我々のロゴを見るのは不思議なかんじがする、と言う。
確かに漢字って、ひとつひとつがデザイン（表意文字）だから、
いっぱいの絵が並んでいるように見える
のかもしれない。アルファベットにくらべても、華々しくて美しい。

この山にとって、何ができるのだろう。しばらく時間があって、村を
歩きながら考えた。
山の集落が持っている問題は根深い。この辺りの山の人たちの「偏屈さ」は
有名で、狭い世界に住むせいか「村の中でお互いに
憎み合ってない人なんてひとりもいないよ」と冗談めかして、
村の薬局のお兄さんも言う。町の人が山に家を持っていて、休暇に行ったけど、
近所の人が親切でなくてもういやで帰って来たなんて言う。
私とて、羊飼いとつきあうのには、時に苦労させられた。

今回帰国中に上映会はしません。DVD制作だけに集中したいため・・
とはいっても提出するものをしてしまえば後は結果待ち、
受け取り、カバーを手で折りDVDをはめこんで袋に入れ、
販売元の出版社に渡すだけなのですが・・まだまだ波瀾万丈です。
日本にいる間、メールアドレスはいつもと同じです。
近辺の方、近辺でない方、どうぞご連絡ください。

それでは、秋のブラより　脇山美伸
        
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    <title>どうしたいってわけ</title>
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    <published>2007-08-04T10:55:45Z</published>
    <updated>2007-08-04T17:13:33Z</updated>
    
    <summary>「救急に行ってみようかなあ・・」 と夜ご飯の支度をしながらディーノ氏に持ちかけた...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        「救急に行ってみようかなあ・・」
と夜ご飯の支度をしながらディーノ氏に持ちかけたのが６月１８日、
山でダニに食われてから２０日もたっていた。

今年の夏は暑いような涼しいような、とにかく雨が少なく乾いているせいで
山では”ゼッカ”zecca　＝ダニに食われる人が多発していると言う。
異常気象となると虫の行動もおかしくなるらしい。

イタリアで公共医者にかかるは
「かかりつけの”一般医”に行く→受付書（レセプト）をもらう→
病院に予約する→何日も待ってようやく医者に見てもらえる」
という長い段取りがいるから、
すぐに見てもらいたい場合はちょっとしたことであっても
救急に行くしか方法がない。
（この”一般医”とは担当医のようなもので、
各個人にひとりの医者が割り当てられる。
一般医が何か治療をすることはほとんどなく、
患者の話を聞いて薬を指示したり
病院の◯◯科へ行くためのレセプトを書いてくれるだけ。）

ダニが左ふとももの裏にひっついているのを発見したのは、
山へ行ってから１週間もたった後で、黒い点のようなものはてっきり
かさぶただと思っていた。どうもこのかさぶたは取れない・・と
思った時にようやく「ダニではないか？」と気づいたのだ。

山に住む犬などを見たことがある人は、彼らにひっついているダニが
血を吸って大きな球になっているのを見たことがあるかもしれない。
人間にダニが着く時も同じように大きくなるらしいが、私のダニは
どうやら死んでしまっていて、血も含まず乾いてた。

「日本人の血では満足できなかったらしいよ。」とブラの人に
冗談を言っているうちはよかったが、いろいろな話を聞くうちに、
ダニをひっぱがす時は体内に彼らの一部が残らないように注意がいるという
ことがわかってきた。

たいていのトラブルは医者にいかずすませてしまう私は、今回も、
炎症で微熱が出たり左足が多少重くてもほおっておいた。
その重い感覚もかなりわずかなのでよくなっているように思っていたし、
私の担当医に一応見せに行った時も、
彼は小さなルーペでふともも裏を見て「大丈夫のようだけどねえ」と言うから
安心していたわけだ。

この私の医者、ピエールジャコモ氏は専門が「心理学」なので、
お話を聞くのは上手だが、「ここが痛いんです」と言っても
「心配しないでも大丈夫だ。」となぐさめてくれるばかりで、
こちらの方から「◯◯科の△検査、やりたいので診断書ぜひ書いて下さい！」と
ねじこまないと行動に移してくれない。

ルーペで太ももの裏を見る時だって、夕方の光でほとんど部屋は薄暗いし、
何を見たんだか・・。

救急に「行ってみる」ことにしたのは、もしこれからもっと重大なことで
救急に行くはめになった時、少しでも様子がわかっている方がいいから、
という気持ちだった。
足の重さが消えないのも心配ではあったけれど、むしろ下見のつもりだった。
ディーノが１０年程前指を切った時は縫ってくれるまで
３０分以上待たされたというし、
去年道で転んで肋骨にひびを入れたアルマンドも
「ぼくが行った時は“幸いにも”整形外科医が
いた日だったからよかったけど・・」そうでない場合は？
救急と名がつくのに、何時間も待たされる日さえ
あるというから、これは心の準備が必要だ。

熟したバナナが冷蔵庫にあり、今日中になんとかしなければいけなかったので、
ケーキにしてオーブンに入れてゆっくり休憩もして、
夜１０時につきそってもらって病院に行く（幸い家に近い。）
閑散とした救急受付には１人の人が待っているだけで、
さすがに夜は待たされることはなさそうだ。
すぐに小さな診察室に通されて、ちょぼひげの生えた
薄緑のスモッグのおじさんがやってきた。

ダニをひっぱがした後に軽く消毒したこと、
その後特に抗生物質など飲まなかったこと、
足が重いことなど話していると、
そのおじさんは診察台に寝転んでいる私の太もも裏をぐいっとさわって、
「この傷口、まだ固みがあるだろう。中で化膿してるか、
中にまだサキッチョが残ってるかだな。
８日間抗生物質飲んで！」と言い放った。

８日間！　抗生物質が大嫌いな私は &quot;オット・ジョルニ！&quot; とリピートして
診察台から体をねじって彼を見ると、
「それが嫌なら今切るか！オー、ケッヴォッファ！」。

ケッヴォッファ！とは正式イタリア語
 ”ケ・ヴォイ・ファーレ”
（どうしたいってわけ＝それ以外は方法がないだろう？）のローマ版、
英語に直訳すれば What do you want?だ。
イタリアでは地域によって口調、しゃべり方がまったく違い、
特にローマ、ナポリの人は北部に移り住んでいてもすぐわかる。
私にとっては彼のローマなまりだけでもわかりにくいのに、
ケッヴォッファ！と「ローマお決まりの言葉」を言われると、
いわゆる北部の人たちの持つ「南部イタリアのいいかげんなイメージ」が
頭にわいて、お笑い映画に出ているわけじゃないんだから
どうにかしてよ・・とがっくりきてしまうのだ。

「この国でね、ちゃんとした医療を受けようと思ったら、
個人の医者に大枚はたいて行かなきゃ駄目なのよ」とは
１００ユーロ（一万円以上）払って産婦人科チェックに行くパオラだが、
すべての公共医が不真面目なわけではないとしても、
ちょっとした手術のために何ヶ月も待たされた、
真面目にとりあってくれなかった、等のケースは日常茶飯事だ。

おまけになぜか公共のお医者さんには南部の人が多い。
（それはある人に言わせれば、
南では金さえ払えば医者の試験にパスできるから・・だそうだ。）
たとえその人がすばらしい腕の持ち主であっても、その南部特有の
（みなさんには想像しがたいかもしれないので
典型的アモーレカンターレパスタ大好き風のイタリア男を想像して下さい）
軽い態度で「お嬢さん、またまた何を言って！」と言われたりすると、
（そしてその後に長々と世間話したりするのも珍しくない。）
信頼できない・・という思いが浮かぶのも避けられない。

ケッヴォッファ！のちょびひげ先生に
「切るってどれくらいの大きさ切るんですか？」と
聞いたら、
「これぐらいかね！」と指で丸く大きく円を作った。
３ミリもない傷口を切開するのに
そんなに大きく皮膚を切るわけ！という顔をしたら、
訂正とばかりに鉛筆でやや小さな円を書き直してくれた。

「今日切ってしまいたかったら切ってもいいわけよ。そうする？」
とためすように私を見るが、
内心「この人に切ってもらうのはどうも・・」と心の準備が
つかなかった私は「抗生物質飲みます・・。」とひきさがった。

そこから別の所に詰めている ”夜間担当医”の所まで歩いて行って
抗生物質を買うための処方箋を書いてもらう。
（イタリアでは病院内では薬を出さない。
処方箋をもらって薬局へ行く。）
その夜間医は「このミノチン抗生物質は１００か２００か？ ２種類
あるんだよ・・。どっちか書いてないなあ。」と繰り返すこと１０分程、
ぼろぼろの薬辞典をひっぱり出してけん命に見ている。
「救急に電話かけて聞いたらどうですか」と説得して、
やっとミノチン１００でオーケーということがわかった。

そこから車に乗って、街中心にある夜間担当薬局まで行く。
もっと具合の悪い人だったらどうするのか、
車がない人は歩いて薬局まで行くのか、心配になる。

後日、すっかり私の一般医ピエールジャコモ氏に信用を失っていた私は、
「ブラでおすすめの一般医」を”検索” し始めた。「街ヤフー」とも
いえるこの検索エンジンは、ひたすら皆に聞いて回ることである。
友達のヴァレは「ハリもやる若い一般医」にかかっていて、有能だと言う。
保険事務所に行って担当を彼に変えようとしたが、
当然のごとく「既に患者がいっぱいで空きなし」。
ヴェスナの一般医はこれまたローマ出身で、
道で会った時に「これこれこうだからレセプト書いて」と言うとその場で
メモ帳にさらさらっと走り書きしてくれる軽さ。
どうせ一般医なんて「病院への通り道」でしかないんだから、
それで彼女は満足だそうだ。
でも私はローマ出身医にはアレルギー気味なので却下。

抗生物質の効果で頭をふらふらさせながら自転車に乗っていると、
サングラスをかけた褐色の肌の人が、あちらも自転車からミノブー！と呼んだ。
移民用イタリア語クラスで同じクラスだったモロッコ人のヤシンだ。
騒動の一部始終を話すと「ぼくの一般医はとてもいいよ、エンジェルだ！」
というから、その足で保険事務所までかけつける。
祈る思いで「ブラ一般医の表」を見ると空きがあったので、
すぐに変更手続きをする。
彼のおばあさんが足にできものができた時、病院がとりあってくれなかったのを
この女性医は心をくだいて何とかとりはからってくれたという。

ヤシンは私が何か必要な時にかぎってふらりと姿を見せて、
「ああ、そういうことなら◯◯オフィスにすぐいくといいよ」とか
「労働組合の△事務所なら大丈夫」と教えてくれる。
たぶんブラのモロッコ系コミュニティーは大きいから、
その中でもかなり情報交換があるのだろう。
正面の歯が一本抜けていて童顔で、憎めない人だ。

私たち日本人にとって、公共の医者とプライヴェートの医者がこれほど
はっきり分かれているシステムは信じがたい。
逆にイタリア人にとっては「どこの医者に行っても３割負担」の日本方式は
想像しづらい。「・・ってことは、全部のお医者さんが
公務員ってこと？」と聞かれたりする。
考えてみれば、評判のいいお医者さんや自分の行きやすい場所で医院を選べるのは
効率がかなりいいし、そうであるからこそお医者さんもヤブならヤブ並み、
腕が絶つならそれなりの客が来るというものだろう。
ここでは公立病院の産婦人科で女の先生がいいなどと思っても
何曜日に女医が来るかさえも決まっていないし、
ましてや予約時に好みの医者を指定するなどできない。
運に天をまかせる気持ちで病院へ行く。

そんな時に、最近頭の傷を縫った男の子にあった。
６月から学校が夏休みに入って、多くの子供がエスターテ・ラガッツィという
「夏の子供教室」のようなものに通う。
任意でお金を払って行くもので、ブラの場合は公サービスと私立が共同して
企画している。勉強のためではなく、
遊んだりバスで遠足に出かけたり工作をしたり、かなり活動的だ。
エスターテ・ラガッツィ中に転んで頭を打った８歳の彼は、
救急で処置をしてもらった。
どの先生だった？と聞くと「ひげが生えてて・・」
コミカルでローマ人で？　・・そうそう。「腕はよかった？」と真面目に聞くと
まあね・・、という顔をしていた。
彼のおでこの上の縫い口は、確かに悪くない。
私も思い切ってあの場で切ってもらえばよかったか・・と思わなくもない。

抗生物質を５日も飲むと吐き気はするし食欲は失せるし、
調子が悪いのがダニのせいなんだか薬のせいなんだかよくわからない。
肝臓がやられるからまるでつわり状態で（経験したことはないが）、
次第にブラの汚れた空気さえも絶えきれなくなってきた。
空気にまで吐き気を催すと町中では居場所がなく、土日は緑を求めて
車で１０分程の林の方へ行った。そこには新たなダニがいないことを祈りつつ。

５月末に山へ行ったのはDVD制作のことで羊飼いと話があったからだが、
１時間だけ草原にすわっただけだった。
旦那のアルドがトラクターの故障をスパナで
直しているそばで手短に話している間、または
その後彼らの犬をさわったのがいけなかったのか。
ジーンズの裾からこのダニは、どうやって太もも上まで登っていったのか。

国立公園アルピ・マリッティメを通して助成金をもらうことが決まった時、
なにごとにつけ詩的な表現をするのが好みのディーノ氏は「公園全体の
木や花や風が、
ミヌー（宣伝してくれて）ありがとーありがとーって言うだろう」
と言っていたけれど、
ダニまでお礼にエキスをわけてくれようとは思わなかった。

こんなことでもなければ山の怖さやヘビの危険性など気をつけることもなかっただろうから、
良い経験ではある・・と頭をぼおおっとさせながら横になっていると、
６月の湿気と暑さもあって、子供の頃の夏休みに「何して遊ぼうかなあ・・」と
和室でごろごろしながらうちわをあおいでいた瞬間を思い出した。

ああやって大量の暇な時間を持っていた頃がずいぶん遠くなってしまっていた。
やるべきことは壁にはってもはりつきないし、
三食ふとん付きの子供時代ではないのだから、
各種料金支払い，支払いの催促、メール、映像のビットレートがどうとか
来月の企画がどうとか・・と頭がいっぱいなのは誰にしても普通だろう。
こうやってヤクの力とはいえ頭がトリップすると、
「あ、今何も考えてない・・」と逆にびっくりしてしまう。

この放心状態を貴く思い、
できるだけ週末ぐらいはそのまま自分をほおっておこうと思うのだが、
頭がからっぽとは今さら怖いところもあって、
何時間もぼーっとするのが難しい。
つい本など読んでみたくもなって、いつもなら絶対読む時間を作らないような美術系の本
（それでもエネルギーのいらない簡単なもの）を読むと、
頭が白紙だからすいすいと読めた。

体調が悪いとは確かに心地よくないもので、
吐き気などは特に「なんとかあの普通の状態に戻れないものか・・」と願う。
けれども、それをふと超えてしまうと、
痛さや不快感が鋭い分だけ生の感覚が浮き彫りになるような、
逆にどこかがくっきりと「生きづいている」ようにも思われる。
確かに、私たちにとっての「悪い」「痛い」感覚も、
体内の細胞たちにとっては「活発に戦っている」「懸命に掃除している」
などの言葉に置き換えられるのだろうから、
生が活動的になるというその感覚は、間違ってはいないだろう。

８日間薬を飲んだ後に、救急ひげ先生の指示したとおり外科へ行く。ここで
まだ炎症が見られるようなら切る、ということらしい。
１４時の予約へひとりで向いながら、
今日の先生がまた南の人だったらやだなあ・・と気が重くなるが
（ここでは私も完全に人種差別主義者だ）、
この国に住むことに決めたわけだから医療にしろ何にしろ、
すべて受け入れないといけない、と思った。
もしマレーシアに住む人だったらマレーシアの医療を受け入れるしかないし、
ケニアだったらケニアの医療システムで生きるしかない。
だいたいイタリアが先進国だと期待するから悪いわけで・・
と悲哀に腹を決めていると、
入った病院の予約受付カウンターはさっそく大行列で
電光掲示板の呼び出し番号が凍り付いている。
「これってどういう状態ですか？」と隣のおばさんに聞くと、
「こう着状態！」と言ってはっはっはと笑った・・。

この先は、はたして前記のくりかえし、
その日の外科のお医者さんは生粋のピエモンテ男性だったのに、
やっぱり傷口を見て「もうなんにもないよ！大丈夫！」。
診察は３分もかからず「うちの孫だって
今年はダニに食われたんだから」とわけのわからぬ励まし方で帰された。

その後も足の異常感が時々残っていたし、
「切ってもらった方が確実」と助言する街の人も多かったけど、
このように一見状態が良い場合、
何度公共医の所へ戻っても「大丈夫！」で終わるのは明らかだ。
となると、プライヴェート医に大金を払って行くほどのことでもないようだし、
もうあきらめるしかない。

こういうことにも、数を重ねるうちに慣れてくるのだろうか。
電車の遅れなどなら（事故でない限り）
笑ってすませることもできるが、もっと重大な医療ミスだと笑えない。

「イタリアは居心地良く、居心地悪い〜」とあるコメディアンも
最近歌っていたけれど、
２０％の付加価値税（消費税のようなもの）、
高い年金、政治の横暴、横柄なクレーム処理など、
在住４年目を過ぎる私も色んな意味で慣れてきた。
慣れてしまうと（この国で生まれ育った人が他国と比較することを
知らずにこれで普通だと思ってしまうように）
肩をすくめるだけで終わってしまいがちだ。

先月末に晴れて自動車免許のオートマ解除試験に合格して、
最近は私も車で町中を走るのに慣れたが、
最初はあってないのごとき歩道を行く人々に対して
暴力をふるっているような気がしたものだ。
それは東京の小道で走ることだって同じだけれど、
この車社会では「信号をできるだけ排除して
円形ロータリーで車の流れを速くする」のが大流行で、
横断歩道でさえ渡るのは注意がいる。（多くの車が止まってくれない。）
それが、子供の頃から親の運転する車の後ろに乗って成長したりすると、
大きくなって車で移動するのもまったく当たり前のことになって、
歩いて５分の所へだって車で行くようになる。

私も徐々に肩をすくめるようになっていくのか、
いちいち怒ってあがいてみたりするのか。
車の運転などやはり必要があってせざるをえないにしても、
少なくとも、肩をすくめるのは嫌いだ。

どうしたいってわけ、ケッヴォファ！と言われた時に、
「それではコレコレカクカクこうしましょう！」と
聡明に言えるようにしなければいけない・・のだろう。
何も方法がないってことは、ないのだから。

ブラは既にやや涼しくなって、夏も終わりだねえなんて言い合う日々。
次回にブラ日記を書く時はめっきり寒くなっているでしょう。
その時までまた・・。

脇山美伸

        
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    <title>折り紙の春</title>
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    <published>2007-04-21T15:59:42Z</published>
    <updated>2007-04-21T16:19:01Z</updated>
    
    <summary>ブラは春のような初夏のようなおかしな天気、 １月の日本帰国からブラへ戻り、冬のよ...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        <![CDATA[ブラは春のような初夏のようなおかしな天気、
１月の日本帰国からブラへ戻り、冬のようではない冬を過ごすと、
もう４月も終わりだ。

２月のある日、１８時半頃外から帰って本をめくっていると、
なんだか嫌な匂いがする。
道路で誰かがタイヤでも燃やしたのか、と思ってたいして気にしなかったが、
ソファから立ち上がっ時、これはおかしいと思って玄関のドアを開けた。

目にしたものは真っ白な煙で、集合住宅の階段向こうにあるおうちのドアも
全く見えない。
一瞬誰かのうちのアイロンから火でも出たかと思い、
とにかく消防車に電話することと、
上に住んでいる２人のおばあさんのこと、自分が逃げることなど
いっきに頭が回転し始めた。

イタリアと日本では１１０番も１１９番も番号が違うから、
最初は間違って１１２番にかけたら警察だった。
１１５番にかけなおし、住所を半ば叫んで電話を切り、
財布の入っているバッグを持ちベランダに出ると、同じ１階の娘さん、
フランチェスカが泣きそうな顔で道を走っている。

フランチェスカの家の２匹の小型犬が中に残ってしまったのかと思って
フランチェスカー！！！まだ中に誰かいるの！！
と叫んで聞くと、
上のおばあさんたちが！！
と、とりみだしながら彼女は答えた。
（自分の犬のことでなく他人のおばあさんについて
これだけ心配していることに私は一瞬感じ入った。）

私のベランダから上を見るとテレーザおばあさんもベランダに出ていて、
どうやらいいタイミングにお孫さんも来ていたらしい。
「コーメ・ファッチャーモ！！！」
どうしよう！と私たち３人で叫び合い、
３回のリータおばあさんは？リータ！リータ！と
２０代のお孫さんが叫んでベランダに呼びだそうとする。
１階の私はすぐ道路へ飛び降りられるけど（１階といっても半１階なので少し高い）
上の彼女たちは残るしかない。

とりあえずディーノに電話しなくちゃ、
と仕事を終えたはずの彼にすぐ電話する。
そこで「テープ！」と気がついて、今まで撮影した何十本ものテープを
全部箱や袋などにまとめてベランダから降ろすことにする。
こんな瞬間に何か爆発でもしたらと、あせりながらもさっさとまとめた。
さすがにコンピューターの、編集データが入っている
外付けハードディスクまでは持って行けない。

家の中まで煙はまだ入ってこないし、火も見えないので
いくぶんかパニックも少ない。ベランダ下に到着したディーノにどんどん
テープ入りの箱やビデオカメラのバッグをリレーして、後は私が柵をとびこえるだけだ。
１階だからせめてもの防犯に竹の覆いを柵にくくりつけてあが、とらなくては。
「はさみ！」とディーノが言うのも聞かず、手で２、３度強くひっぱって無理やりひっぱがしてしまう。
自分がハードボイルド映画の屈強な主人公にでもなったような気分だったが、
防犯と言ってもひもでくっつけてあるだけだからドロボウも簡単なもんだ、と
せっかくの工夫が笑える。

到着した消防隊員が３階のリータおばあさんに
向って「ベランダに出て、ハンカチで口をおおって！」と叫んでいる。
脱出もすませた私はリータがベランダにいるのが見えるし、
そう取り乱している風でもないから
下から手をふって勇気づけるぐらいしかできない。

どうやら地下のカンティーナ（ワインや自転車、
使わないものなど入れておく各家の倉庫）からぼやが出ていることがわかった。
すぐに火が回る心配はないらしく、脱出した私たち住民も
少しは安心する。

集合住宅の前の市民体育館から出てくる人たち、周りの住宅の人たち、
警察に消防隊に新聞記者にてんやわんやの騒ぎだ。
スーツをばりっと着た若い人が皆に握手をしながら挨拶しているから
誰かと思えば、副市長さんらしい。
励ましにくるのはもちろん口実で、次の選挙に向けての
イメージアップ・チャンスを逃さなかったのだ。
どこか喜々としているのがにじみ出ているからさらにたちが悪い。

原因は何か？誰の家の地下倉庫か？何から火が出たのか？
さっぱり何も、誰にもわからない。

２時間後に消火活動が終わって、ベランダをつたって
消防隊がおばあさんたちの階まで登り、
煙のはけた階段を使ってリータもテレーザも降りて来た。
リータおばあさんは全く動揺する様子もない。
全然匂いに気がつかなかったし、何が起こっているんだかも
わからなかった、とにこにこして言う。

それはそれでかえって良かったのかもしれないが、アパートの私たちは
リータおばあさんにどれほどの理解力が残っているか、この一件で思い知らされた。

火事のあった日の夜は化学物質の燃えた匂いで
とても家の中に寝れたものじゃない。
すぐには電気も電話も復興しないし、階段左側の住民たちはトイレ用のパイプが
壊れたせいで、その晩からトイレさえも使えなくなった。
近郊に身寄りのないリータはテレーザおばあさんの息子さんのところに
一緒に泊まりに行き、フランチェスカの家族は駐車場に止めたキャンピングカーで
寝たという。

ひとつだけこの火事さわぎで良かったのは、アパート内の住民どうしで
少し会話が増えたことだ。火事の後数日間は、
消防隊がかきまわした地下倉庫はいつ修理されるのか、
アパートの管理事務所はいつクレームに対応してくるんだ、
など共通の話題がいっぱいあって、
名前も知らなかった４階の奥さんはナポリ出身でマチルダということなど、
新しく知ることもあった。

それでも日を追うごとに、元のようにただのあいさつをかわすだけの関係に戻っていくのが、
新興住宅地帯の性（さが）というのか、火事効果もそう続くものではない。
火事のすぐ後はリータおばあさんをなんとかしなくっちゃ、とほとんどの住民が
思っていたけれど、
かといって誰の元へ送れるわけでもなし、
今まで通り、彼女は電気製のコンロを使って（ガスよりは安全だ）ひとりで生活している。

それにしても、消火が終わった後私のアパート周辺から離れると、
３００メートル先の辺りなど、まったくいつもと同じ風に世界がまわっている。
消防隊が叫ぶ声も、警察も野次馬もいないし、煙の匂いも脱出する人たちもいない。
車が普通に走り、信号が動き、歩道をゆっくり歩いている人たちがいる。
非常事態が瞬時にやってきて混乱を生み、そこからまた通常の状態へ戻ると、
なんて平和な、と思う。
戦争とか爆弾、大地震を経験したことのない私は、その落差がいちばん心に残った。

３月、そんな事件のこともすっかり忘れかけたころ、私は中学校の
地理の授業に忙しくなってきた。
去年ちらし寿司を一緒に作ったチンツァノ中学校で、
今年は３年生（１４歳）のクラスに
日本について授業することになる。（ブラの隣、小さな田舎町の中学校だ。）

初日３Aクラスに行くと、去年知り合った子たちが大きくなったり
表情が大人っぽかったりするのが、なんだかおかしい。

３年生は地理の授業でアジアについて勉強するから、
知識を深められるものをという学年担当のデリア先生の希望だった。
３回の授業で２時間ずつ、最初に日本語について、次に折り紙、
最後にお茶について説明するというプログラムを立てる。

こちらに来て新鮮だったのは、多くの人に漢字が美しいと言われることだ。
私たちにとってあたり前の漢字ひらがなも、確かにアルファベットにくらべると
ずいぶん絵画的で読めない人にとってはデザインのように見えるらしい。
いれずみを入れたいから自分の名前を日本語で書いてくれとよく言われるし、
東洋人気も手伝ってシャンプーや化粧品のパッケージに漢字が
使われているのも見かける。

表意文字と表音文字の違いから入って、漢字がどういう形から発展していったか、
漢字が中国から日本に入ってきた歴史、その漢字からひらがなが生まれた経緯など話して、
最後にカタカナで自分の名前を書いてもらう。

木、川、山などは少し絵的に崩せばすぐ彼らにもその漢字が
何を意味するか当てられるし、
木が２つ集まって林、３つ集まったら森、森と林が集まって森林、
などわかりやすいところから説明する。
私の名前の意味を説明し、「美しい」っていう抽象的な観念は
どうやって絵にできるか？など考えていく。

デリアの担当する３Aクラスは比較的大人しく、お行儀がよい。
自由に質問もしてくるけど、その内容もまじめだし、
こちらの話に沿ったことを聞いてくる。
それとちがってマリアンジェラ先生の担当する３Bは、
うるさいわ、しゃべるわ、全然内容と関係ないことを
ぽんと聞いてくるので、
話そうと思っていることの４分の１くらい言い損なう。

「君をずっと愛してる」って日本語でなんて言うの？
と質問されて、答えつつも「日本では夫婦、恋人の間で
はっきり愛してるとは・・あんまりいいません。」
と説明をすると（そうではないですか？）、
３Bの男の子がすかさず「でも、態度でわからせるんでしょ。」と言った。
その返答に笑いつつ、「態度でわからないのにお互いわかってるように
錯覚することもあります」なんて説明はとっさにできなかった。

異文化の交流なんて言葉をよく聞くけれど、そんなに簡単なこと
でもないだろう、と毎週準備をしながら改めて思う。
確かに折り紙で鶴を折ったりするのは、異文化を知ることかもしれないけど、
ひっくりかえるくらい全然文化が違うのは、本当は拒否反応が出るくらい
強い経験だし、それこそが「異なる」を知るってことじゃないかと思う。

話し合いの段階でデリアは「なんにせよ、私たちよりミノブは日本を良く知っているんだから
あんまり心配しないで」計画するように励ましてくれたけど、
またそんな簡単なこと言って・・
と私は楽観的になれない。

私の思う日本とA子さんの思う日本は違い、A子さんの思う日本とB男君の思う
日本は違うわけで、日本人の私だから日本を良くわかっているか、っていうとそうでもない。
実際、神道のことなどになると説明しようにもどうもうまく説明できず、
へたに間違ったことを言うよりは「今回は勉強不足ですので」とことわって深入りしないことにする。

カタカナで名前を書いてもらうのは、ずいぶん気に入ったらしく、
配ったカタカナ表を見ながら大騒ぎになった。
ヴィやツィ、チェなどの字がある子供たちは苦労していたけれど、
自分のお母さんの名前まで書きたがる女の子がいる。
後日、ある男の子の布製筆ケースにサインペンでマテオと書きこんであるのを
発見して、
なんだかうれしくなる。

鶴を折るのには１時間弱もかかって、授業の半分がそれで過ぎてしまう。
難しいところになるとひとりひとりミノーブ！ミノーブ！と
助けを呼ぶので私の名前の大合唱みたいだ。
折り方は荒く、はしとはしがきちんと重なっていなくてずれたりするけれど、
思っていたよりは皆できた。
以外なのは先生の方がうまくできなくって、マリアンジェラ先生は
途中であきらめ前に座っていた生徒にやってもらっていたことだ。
牢番みたいに厳しい口調で話す先生なのに、なんだかおかしい。

自分の授業以外にフランス語、英語、音楽、歴史、イタリア文法、文学、とたくさんの
授業を見せてもらったが、折り紙の授業の後はたくさんの子が先生の目を盗んで
鶴や手裏剣（作り方だけコピーしてあげた）を作っているから、後ろから見ている私は
ハラハラした。別に私のせいではないが、原因を与えたようで。
長方形から正方形を作りだす方法（一片を三角に折る）は、
日本の子供だったら当たり前のように知っているけど、どうもチンツァノのみんなは
それを知らないらしい。ノートの一角を定規ではかって正方形を作り、
それにペンで色を塗ったりして折り紙にしている。

折り紙をして楽しかったね、だけでは小学生向きの授業になってしまうので、
子供の昔の遊びから今の子供の生活、私の子供の頃の生活について、
任天堂ゲームボーイ、ポケモン、そこから広がって戦後の日本経済の
成長過程まで話す。

習いごとなどで忙しいイタリアの子もいるけれど、小学生のうちから
毎晩塾に行ったりするような生活は、彼らの生活からかけはなれすぎていて
想像もつかないようだ。
私が小学校６年生の頃毎日夜ご飯のお弁当を持って
塾に行き中学受験に備えてテスト勉強した、なんてのは「はて？」という
反応で、もちろんそんなのは絶対ごめんだ、というのが彼らの感想だった。

授業前に任天堂について調べものをしていると、ポケモン、ゲームボーイの
売り出し戦略は、忙しい子供たちの生活に合わせて学校の休み時間でも、
バスや電車の中でも遊べるように、そして彼らの生活の隙間に
あたかももうひとりの友達・ポケモンが存在しているように」
商品開発することだった、と読んだ。

折り紙や竹とんぼのように、時間と材料、手の技術のいる遊びから、
ポケモンカードやゲームボーイに遊びが変わってきたのは、
技術の発展や子供にかける金額が変わったことだけが原因じゃないだろう。

「忙しい子供の生活に合わせてニンテンドーは解決策を打ち出しました・・」
と説明してそこまではよかったが、「プレイボーイです！」と言った時、
3Bの子供たちのきょとんとした顔、そして、それがにやにやした顔に変わってくると
私も大きな間違いをおかしたことに気がつく。
（ソニーがプレイステーションで任天堂が
ゲームボーイだから、ごちゃごちゃになってしまうのだ。）
中学３年というとクラス内の男女でつきあい始めたりする子もいるし、
プレイボーイがどんな雑誌かってことくらいは皆よく知っている。
マリアンジェラ先生も「おかしいと思った・・」と苦笑、
私は「実際プレイボーイは電車の中でも簡単にページがめくれますね・・！」
としめくくって、先に進んだ。

１４歳の彼らはもうポケモンはほとんど卒業していて、
「昔はやったけど！」ともうあんなものはやらねえよな、という風だった。
ゲームボーイもクラスの２１人のうち１０人は持っているけど、
話を聞いた限り大好き！という印象もない。年齢的にも
新しく出た任天堂DSなどの方に少しずつ興味は移っているようだ。

回を重ねるごとに、イタリア語で２時間話すことの難しさよりも、
どうやって彼らの反応を引き出すのか、という難しさが
身にしみてくる。
話す内容は全て文にして書き出し、ヴェスナかディーノに聞いてもらって
間違いを直してから臨むわけだけど、それを読み上げるって
わけにはいかない。
（講義や座談会で原稿を読まれるぐらいなら
本でも読んだ方がいいと私は思うのだ。）
その場その場で相手がどう反応してくるかはその日にならないとわからないし、
彼らにとってわかりにくければ言い直しが必要だったり、その話から派生して
違う質問が出たりする。

そうやってお互いが反応しあいながら話していくことこそが
大切だとわかっていても、
特に３Aクラスなんかは私の邪魔せずしっかり話を聞いてくれるから、
終わってから「なんかずいぶんうまく話せたな」と思う。
それがかえって良くないのではないかと思うのだ。

私がどう考えるかではなくて、もっと相手がどう考えるのか聞いてみること、
そこから話を展開すること、何か働きかけたらそれにどう答えてくるか
そこにまた自分も反応すること。

そんなことを考え始めるとさらにどつぼにはまり、またさらに悩み始める。
そしてふと思い出したのは、教育、Education　エデュケーションって言葉は
「引き出す」っていう語源がある、という話だ。

伊和辞典にはギリシャ語源、ラテン語源の説明がついている単語もあるので
いい機会だから本当かどうか確かめておこう。
EDUCARE　教育する
という動詞を見ると、確かに ラテン語educareはeducere (ex=fuori + ducere=trarre）から、とあり、
「外に引っ張る・導く・抽出する」という意味からきているのだった。

３回目の授業あたりで、ようやく相手の反応を見る余裕もでてきたのかもしれない。
それとも、歴史や文化について用意した言葉で説明するのではなく、
実際にお茶の簡単なお手前を見せて
その動きにどういう意味があるのか、どういう体の作用があるのか、
ひとり子供に前に来てもらって実際にやってもらったりする。
そういう体のやりとりだったからかもしれない。
西洋的に「体がまっすぐ」と、その「体がまっすぐ」では、どういう風に違う？
力を入れてボクシング風にパンチするのと、
力を抜いて体を投げ出すようにパンチするのではどう違う？と、
「子供といっしょに」やっていくと、
それは私にとっても（たぶん彼らにとっても）
あるひとつの体験なのだ。

同じ時期にディーノと議論することがあった。いざとなると口のたつ私は
ある日がんがんと言いたいことだけ言い、お互いの意見がぶつかっただけの結果になった。
後日、私だって相手からこんな反応がほしかったわけじゃなし、と反すうしてみると、
確かに伝える方法はもっと他にあったと思う。
言葉と言葉でハッケヨイノコッタしてるのは意味がなくって、
きっと自分の言葉や態度をきっかけとして相手の何が引き出せるかってことなのだ。

それで、相手の中の何かが動いている時って、
さざ波が伝わってくるようにわかるもので、それが体感としてなければ
きっと言葉を発している意味はほとんどない。

難しいのは、3Aでうまくいったからといったからといって3Bでもうまくいく、
というものでもなく、時と場合と私自身の状態による、完全に「水もの」だってことだ。
お互いのタイミングが合うということでもあって、今回無理だったことは
きっと次回への課題だと思う。

体が大きいジャイアンみたいな男の子がいて、彼はとても
日本に興味があるらしかった。
日本の映画で庭の大きなランプを見たがなんと言うのか？（＝灯籠）など、
色んな質問をしてくる。
日本にはラップ音楽ってあるの？と聞かれ、
ああ折り紙とかお茶とか漢字とか、
ついありがちな日本紹介になった面もあった（そうしないようにしようと
気をつけつつ現代詩なども朗読してみたけど）、
もっと今のロックとかラップとか、バイトとかドラッグとか
そういうことも含めなくっちゃいけなかったと反省した。
忌野清志郎のCDだって持っていたのに。
次に向けて、私も研究したい。

ブラの５月はどんな５月になるか、時間の流れが早くとも
瞬間をすべらせずに、と思います。

アノニマスタジオの連載、合わせてご覧ください。
<a href="http://www.anonima-studio.com/frameset.html" title="アノニマスタジオ">アノニマスタジオ</a> 

それではまた次回の書き込みまで

脇山美伸]]>
        
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    <title>タイミングがあえば</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://hako-house.com/cgi/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=33" title="タイミングがあえば" />
    <id>tag:hako-house.com,2006:/blog//1.33</id>
    
    <published>2006-12-24T12:43:13Z</published>
    <updated>2006-12-27T18:59:45Z</updated>
    
    <summary>例年になく暖かい今年の冬は、昔の厳しい寒に慣れた老人にとって 暖かすぎるらしい。...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        例年になく暖かい今年の冬は、昔の厳しい寒に慣れた老人にとって
暖かすぎるらしい。
道であった知り合いのおじいさんが、手袋なしだったので、
「寒くないの？」と聞くと「春みたいだ！」と言っていた。

クリスマスに向けてあわただしくなってくると、私はなんとなく日本の
おおみそかを思い出す。
ごちそうを買いこみ、贈り物を準備するのに走り、
街で会う人々が口々に「よいクリスマスを！」と
言いあっているのは、おせちを準備して「よいお年を！」と言っているようだ。

美容院で働くパオラにとって、またはおもちゃ屋で働くアルマンドにとって、
このかき入れ時はうれしい時期でもなく、
土日もなしに働いているアルマンドは
「クリスマスなんかなくなってしまえば、万々歳」とぐちり、
美しく気飾りたい女性たちのカットとパーマに追われるパオラは、
２４日の今日も朝７時から働いている。

家族行事でもあるイタリアのクリスマスは、日本のクリスマスにくらべて、
商業的な空気がいく分薄いけど、やっぱりプレゼントなどのことを考え始めると
義務的にお金を使うことになる。
幸いに、私の友人同士ではプレゼント交換もしないし、
ディーノの親族にも私が贈り物をする必要はない、
と暗に了解がある。
めいっこのシルヴィアだけには何か用意するけど、できれば
手で作ったものをあげようと思って、今年は彼女のセーターを
ほどいて編みなおしたマフラーをあげるつもりだ。
まださきっちょにつけるポンポンを作っていなくて、
今日の夜ご飯を食べた後に仕上げなければいけない・・。

「女の子だったらね、それでもいいけど・・」
とおいっ子が多いエウジェニオはためいきをついて、
「男の子は、手作りのものとかじゃなくってプレイステーションなんだよ・・」。
確かに、男の子に手編みの帽子などあげても、あんまり喜んでもらえそうにない。

イランの友達からもメリークリスマスのメールが届き、
さすがにイスラム教徒からそんなものが届くとおや、と思うが、
そういう私も仏教徒であった。
キリスト教関係の本を多く置いている本屋さんで、
「よいクリスマスを！」と私に言った奥さんが、
その後一瞬思い直したように「もし興味あるなら・・？」
とつけ足していた。

恋人の行事でもある日本のクリスマスと違って、
ここでは特に「クリスマス前に恋人を見つけなくちゃ」
というプレッシャーもない。
ただ、２５日の昼を家族で一緒に時間を過ごすのが習わしだから、
家庭がうまくいっていないと、どうだろう。
ほとんどの人がおうちでクリスマスの昼ご飯を食べている
時に、レストランに行ったりするのも味気なさそうだ。

誰かひとりになってしまいそうな人がいれば、自分の仲間に加えてしまうのが
ブラでは普通だし、そうやって私もいつも「パオラのお姉さんの家族」とか
「トニーのお母さんのおうち」に加えてもらって、クリスマスに限らず、
ブラでひとりさびしい思いをしたことは全くない。

私の上階に住んでいるふたりのおばあさんは、二人とも未亡人でひとり暮しだ。
たぶん、２階のおばあさんは息子さんやお孫さんと集まって、
クリスマスのご飯を食べるのだろう。
でも３階のおばあさんは、自分のお子さんもいないし、
遠い親戚がトリノに住んでいるだけだから、
きっとひとりかもしれない。

ただ、さすがに３階のおばあさんを私の友達との夕食に加えるには
ちょっとカラーが違いすぎる・・。

２４日の今晩は、映画館で夜中の１２時半まで働くトニーを待つヴェスナと、
美容院疲れのパオラを加えて、
ディーノ宅で「軽く」ご飯を食べる予定だ。
かぼちゃ・鳥ひき肉・ねぎでご飯を炊いて、
蛸とじゃがいもをディーノが煮て、
それにイタリアのクリスマス菓子パネットーネを食べれば、
「軽く」と言ってももうおなかいっぱいだろう。
本当は２４日の夜は魚を食べるのが、宗教的には正しいらしいけれど、
昨年生鮭をオーブンで焼いたら脂っこくて、胃にもたれたので、
「イブに魚」案は却下だ。

上階のおばあさんたちには、今日か明日にでも、
小さいクッキーを包んだものを届けることにした。
昔気質のピエモンテ人は、何か大げさなものをあげると
「おかえししなければ！」と気を使うから、
ごくわずかなものが良いだろう・・。

１０月末から１１月いっぱいは、親知らずのまわりが化膿して、
野菜スープやふやかしたパンばかり食べていた。
普段は飲まない抗生物質など飲んでも、
食欲を失くして痩せてきたので、意を決してイタリアで抜いてしまうことにする。
イタリアには「保険できく歯医者さん」と「個人の歯医者さん」と二種類あり、
保険できく歯医者さんはあまり技術的にあてにならず、
ほとんどの人が個人の所へ行く。
歯垢とりの掃除だけで１万円近く、
親知らずを抜いたら３万円はかかり、「歯の治療用の借金」が銀行でできるくらいだ。

「既に日本人の女の子の親知らずを抜いたことがある」という、希有なブラの
歯医者さんを紹介してもらい、会ってみると、若い。
それでも、３０代始めにしては老成したかんじのフェデリコは、
ひと言ふたこと話しただけで「この人なら腕に間違いなし」
という信頼感を与え、私も不思議と落ち着いて抜歯に臨めた。

朝から親知らずを抜かなければいけないっていうのも、
若い男の子の職としては厳しいだろう。
夜遊びにも行けないし・・と当日の朝９時、私は、
「昨日はよく寝た？　もしかして友達と夜飲みに行ったとか・・？」
と恐る恐るフェデリコに確認する。
「いや、昨日は疲れはてて、夜９時に寝ちゃった」と言うので、
それなら集中力も万全、と安心して診察台に登る。

覚悟はしていたけれど、横に向って生えている私の親知らずは、
簡単には抜けない。
麻酔をしてるから痛いわけではないけれど、やっぱり怖いので、
なんとか気を紛らすために、頭の中で、待合室の雑誌で見た
「あさりソースパスタ」の作り方をおさらいすることにする。

麻酔の注射を一本打ったあたりで、タマネギをみじん切りにし、麻酔がきいて
あごがしびれてきたあたりで、フライパンで炒め、歯肉にメスがはいって
いる時にはトマトソースを加え、同時にパスタをゆでるお湯を火にかける。
「ちょっとひっぱるけど、心配しないように」とフェデリコが言うのに
うんうん、と合図しながら、ソースに殻付きのアサリを加えて、パスタもゆで始める。
いや、抜歯にもっと時間がかかるなら、ゆで始めるのは早いかも？
長く口を開けている私を心配して、彼も「調子はどう？」と聞いてくるが、
それは私が聞きたいところだ。

「なかなか抜けないから、歯を切断するよ」と言われて、OKと合図すると、
ウイーンという音と共に、
フェデリコが力いっぱい親知らずを引っ張っている感触だけが、麻酔のきいた
口の中で感じられる。もうパスタゆでちゃえ。
１つひっぱり、２つひっぱり・・いったい
いくつの部分に歯を切断したのだろう？
もうソースも煮詰まってパスタもできてしまった。

その後、傷口を縫うのにまた時間がかかり、
サラダまで作るシュミレーションまでして、
やっと１時間の抜歯が終わった。

ただ、このパスタシュミレーションのおかげで、
長い手術もそう長くは感じられなかった。
その後の方が、ほっぺたはひきつり頭はくらくらし、
Ⅰ，２週間は体力消耗する。

日本の医療にもたくさん問題があるとはいえ、イタリアにくらべたら
先進国だろう。
ここでは、検査の内容によっては２、３ヶ月待ちのこともあるし、
お金がある人にだけ許される個人医には、
年金暮らしの老人や移民の人はほとんど行けない。私だって歯以外では
保険で効くお医者さんにしか行けない。

歯を抜いてすっきりしたところで思い返してみると、
２００６年は、随分ゆっくりとしかコトが進んでいないような気が
していたが、終わってみるとちゃんと前に進んだことがわかる。
年初めに映画の助成金について交渉を始め、
最初はまるきりわからなかったその仕組みも、今ではほとんど事情がつかめた。
役所用語や書類用語にも慣れ、簡単なビジネスメールも書けるようになったし、
気がついてみれば、イタリア語の文法もあんなにめちゃくちゃだったのが
なんとか形になってきたではないか。大きな収穫は、
撮影した羊飼いが住んでいる国立公園との交渉が進んで、やっと協力体制に
入ってくれたことだろう。

「なんかどうもよくわからないけど、ごにょごにょやっていたら・・・
あれ！うまくいった！」ということがイタリアではよくあるような気がする。
それは「混沌の中をあきらめずに進め」のようにも言える・・。
最後にタイミングがあえば、一件落着。

昔、泊めてくれていたブラの友人宅の古いさびた鍵がどうしても
開かなくて、３０分も「開かずのドア」の前で私は苦しんでいた。
彼女に言わせれば、
「こうやって鍵を穴の中で左右に少しづつ動かすでしょ・・
がちゃがちゃ、がちゃがちゃって、
それで”道が見えた！”って時にさっと開けるの！」
そんな苦労する前になんで鍵屋さんに行かないのか？ってことはさておき、
確かにその方法でタイミングが合うと、実に軽くドアは開くのだった。

羊飼い夫婦と１１月の末にようやく会って、
映像についての残っていたプライバシー問題を解決し、
奥さんとトラクターの中でお昼ご飯を食べた。
暖かい秋とは言っても、羊とヤギの群れが草を食む草原では風が冷たい。
ピザパン、フォッカチャ、りんごパイを全部半分ずつにして、
バナナも分けあって食べた。
彼らを撮った３年前は私はイタリア語がほとんどできず、
そのことについて、「どうりで何にもわかんなかったワケだ」と
奥さんは笑っていた。
去年の夏、まだ小さい赤ん坊だったヤギの”グレゴリオ”は、
今群れの中で見るといっぱしの雄ヤギになっている。

１２月末から１月にかけて日本に帰ることを決めると、
それに合わせて上映会の企画も入ってきた。
もう上映会なしで今回は帰国したい・・なんて内心怠けて思っていたのに、
ちゃんと日本語の字幕を入れる動機も、与えられてしまった。
日本でゆっくりおせち、ってだけでは駄目らしい。

三重県・伊勢で１月８日、新宿で２１日にやる上映会の内容を貼付けておきます。
今まで短縮バージョンか字幕なしでしかお見せできなかった
「羊飼いといっしょに」にやっと字幕が入りましたので、
時間のある方、近辺に住んでいる方、今まで短縮版を見た方も、
どうぞいらして下さい。彼らのチーズもちょっと持って帰ります。

それでは（興味があれば）よいクリスマス＋年末を！

脇山みのぶ

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上映会

●１月８日（月）１２時〜１４時半　
場所　ドーファンイーブル
参加費　３０００円　予約制
（ランチ・映像＋トーク・１ドリンク、チーズ付き）
住所　JR／近鉄伊勢駅前しんみち商店街入り口
　　　伊勢市宮後２−２−１０ヒシダビル２階
tel ０５９６−２３−７５７７
サイト　http://homepage3.nifty.com/dauphin/

●１月２１日（日）時間１0：３０〜１５：３０（上映開始１１：００、１３：３０）
場所：インド家庭料理アブウ
東京都新宿区新宿１−２３−１６−１０１
丸の内線新宿御苑前駅・大木戸門口より３分
tel ０３−３３５２−６３３１

参加費：１４００円
羊飼いのチーズの試食＋ドリンク（ワインまたは紅茶コーヒーなどノーアルコールのもの）付き
カレーを食べたい人にはキーマカレー（６００円）があります。
（予約制ではありませんが、会場が小さいので、いらっしゃれる方は
脇山にご一報頂けると幸いです。(minobu@hako-house.com)

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    <title>変わりめ</title>
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    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://hako-house.com/cgi/mt/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=1/entry_id=32" title="変わりめ" />
    <id>tag:hako-house.com,2006:/blog//1.32</id>
    
    <published>2006-09-21T11:37:38Z</published>
    <updated>2006-09-29T14:51:49Z</updated>
    
    <summary>ブラはここ１週間ほど暑い日が続き、夏が少しだけもどってきたかのよう。 １週間前は...</summary>
    <author>
        <name>minobuwakiyama</name>
        
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://hako-house.com/blog/">
        ブラはここ１週間ほど暑い日が続き、夏が少しだけもどってきたかのよう。
１週間前は雨が降り続きセーターを着なければいけなかったのに、
季節の変わり目とはいえなんだかはっきりしない。

スーパーマーケットの野菜売り場も、市場の青果売り場も、
ちょうど夏と秋のはざかい期で、
いったい今は何を買えばいいのか？ズッキーニは終わりかけで高い上にそうおいしくないし、
かといってかぶやカリフラワーを食べるには暑すぎるかんじがする。
夏の間、クラウディオの畑のトマトやズッキーニ、知り合いのおじさんの畑のキャベツ、
誰かの庭のプルーンや桃などさんざん堪能させてもらったけれど、
それも秋冬の間しばらくお休みだなあ、と思う。

８月の頭、電気屋さんのアルマンドは既に「秋モード」で、
哀しそうに、「ブラを出て行かなければいけない」と私に言った。
彼の働いていた電気屋Tは、アルバに本店があり、
会社が南部の州の別会社に買収されて、彼のいる電気店は閉鎖になるという。

アルマンドと私が知り合ったのは、店と同じ通り沿いに住んでいた移住したばかりの頃で、
まだ耳にするイタリア語もほとんどちんぷんかんぷんな状態だった。
確かVHSのカセットテープを買いに行ったのか、延長コードを買いに行ったのか、
彼が「何か聞きたいことがあったら、なんでも聞いてね」と行ったのを、
そっくりそのまま「何か聞きたいことがあったら、なんでも聞いてね？？？」
とおうむ返しにリピートしたから、アルマンドは吹き出して笑っていた。

買い物するたびいつも大幅割引してくれて、こんなに引いて大丈夫？と心配になるほどだった。
そんな商売っけのない彼だから、ブラのおじいさんおばあさんたちが「電球の変え方がわからない」
「テレビのリモコンが動かなくなった」と言うほどのことでも、
おうちまで行って電池や電球だけ変えて帰っきていたらしい。

イタリアのこんな小さな町にも、大型スーパの波はやってくる。
ブラはずれの空き地にも大型センターが建築中だし、
ショッピングセンターではテレビやアイロンやDVDプレーヤーまで買えてしまうから、
日曜日に車で買いものに出かける人も多い。
アルマンドがしてくれるようなアフターケアーは、ショッピングセンターで買った品物にはないけれど、
すべてのものが値高く感じられる最近では皆少しでも節約したい。
私のアイロンだって激安５ユーロのおもちゃまがいの製品だ。

そんなわけで彼も、いつかはブラを立ち退くことになるだろう、と予感していたらしい。
けれどもあまり突然にその時がきたので、
私もアルマンドもいささか呆然として、最後の時期を惜しむひまさえなかった。

よく彼の昼休みにいっしょにご飯を食べたり、
アルマンドがおうちに帰って昼ご飯を食べる時に、
ブラから車で３０分ぐらいの彼の住むフォッサノという町まで行ったりしていた。
そういえばこの頃はお互いにゆっくり時間がとれないことが
多くなっていたから、今はもう４歳の娘のアリアンナが、
「なんでミノブは最近うちに来ないの？パパのお店に遊びにくるから？」と、
（アルマンドによれば）”論理づけて”聞いていたらしい。

３年前と今では、ものごとがそう変わっていないように一見思えるけれども、
けっこうブラでもいろんなことが変わっている。
ブラの目抜き通り（８０メートルほどで終わる）にあるカフェは、
1軒はおばあさんが亡くなったのを機に内装チェンジ、1軒は経営者交代で
若者風のカフェに、もう1軒も経営者交代で１８００年代終わりから続いていた美しい木調の内装を紫色の壁にして若者風カフェになった。
若者風になっていくのは、経営者が
若返るからあたり前のことなのかもしれないけれど、自称おばあさん娘の私は
前の方がきれいだったなあ、なんて残念がったりもする。
（ブラの若い人たちは、今の内装の方が気に入っているようで評判はいい。）

そういう気配は、１０年を越えて再訪したベルギーではさらにはっきりと感じられて、
特にブリュッセル郊外の緑地がすっかり住宅地化していたのには、（予想はしていたけれど）
驚いた。あの時いた羊たちはほとんどいなくなって、たくさんの人が今は住んでいる。
変わっていないのは、大きな池とそのほとりにある古いスポーツセンターで、
そこには夜の２１時になってもバレーボールやバスケットボールをしている地元民たちがいた。
スポーツセンター付属のカフェも、ビール位しかない素っ気なさが変わっていなかった。

一方「あんまり変わらない人」もいる。
その住宅地に訪ねた知り合いのおじいさんおばあさんは１０年前と
ほとんど変わっていず、それどころかさらに元気なように見えた。
ふたりとも、よく聞いてみればもう８０代である。
おばあさんは１０年前フランス語しかしゃべれなくて、私はほとんどおしゃべりができなかったのに、
今では英語を習得し「天気が良くないわね！」等自然に英語で話しかけてくれる。
この１０年間の間に彼女はだいぶん勉強したのではないだろうか？
だんなのボガートさんはとても不思議な人で、
「映画の登場人物のようにシュールな人」とディーノが言ったようにどこか浮き世ばなれしている。
そう思っていたらやっぱり、「３０年前に手相の本を書いたんだ」と将来を占ってくれた。

「どうやって手相を勉強したの？」と聞くと、「自分で勉強した」という。
かつ、昔はビジネスマンで、イタリアにも４０回ほど行ったらしい。
彼は見つめる目に特徴があって、言葉を発する前に必ずひと呼吸おくから、
話しているとどぎまぎすることがある。

違う国を見てから自分の住んでいる所を見て、新たに気がついたことは多い。
ベルギーやオランダでは、横断歩道で必ず人を優先してくれたのに、
ブラでは半分以上が車がぶっちぎっていく。
母親が子どもをどなりつけているのは、ここでは珍しくないけれど、
そういえば旅行中はどなっている親を見かけなかった。
ベルギーのある駅では、広い待ち合いホールで子どもが３人走り回っていたが、
母親がいちどだけ呼び寄せて注意しただけで、後は迷惑をかけない限り黙っていた。
バスや電車の中などで携帯電話で話している人は全然いないし、イタリアほど町に携帯電話の店がない。
逆に、イタリアでは生野菜のサラダが安価でメニューに並んでいるけれど、
北に行くほどサラダは値がはって、軽々しく注文できない。
パンは、イタリアよりもベルギー、ベルギーよりもオランダ、と黒くなっていき、オランダのパンとなるともうパンだけでこと足りるような養分のある黒さだった。

「どうしてイタリア以外の国ではパスタが生まれなかったんだろうね？」
帰って来た日の夜ご飯に、さっそく待ちかねていたパスタを食べながら、
ディーノとそんな話をしていた。
もちろん、今やベルギーでもオランダでもスパゲッティはメニューにあるけど、
伝統食としてパスタがあるのはイタリアが一番だろう。
ヴェスナのお母さんは、クロアチア特製の手打ちパスタ「ピューカンツィー」を作ってくれたから、パスタがあるのはイタリアだけってわけじゃない。
とはいえ、例えばこんなに近いスイスにはパスタ文化はない・・。
スイスは山ばっかりだから麦畑がないのかもしれない。それとも、パンの方が日持ちがいいからだろうか？ライ麦しかできないような寒い土地では、小麦粉は高級品だったのだろうか？

３年前の１０月からブラに住み始めた私は、この秋から４年目に入る。
旅行中にパスタがなつかしくなることこそないけれど、
今や普段の生活で日本食を食べた次の日はパスタが食べたくなる。
そう高級なパスタを食べているわけでもなし（どちらかと言えば安いパスタを食べている）、
手がこんだソースで食べることもほとんどない。
手近な野菜と一緒にゆでてオイルをかけて食べているだけだ。
慣れてしまうというのは恐ろしい。

それでも、３年たってもどうしても慣れないものは、緑の色が違うことらしい。
雨の多いベルギーから帰って来てあらためて思ったのは、
ここの土地はだいぶん乾いていて、緑は少しぱさついたかんじがするということだ。
美しき丘陵地帯のピエモンテ州であっても、雄大な自然のトスカーナであっても、
心のどこかで日本の自然の色・ツヤを求めている自分がいる。

その欲求不満が１日だけ解消されたのは、通りかかったベルギーの南東部、ワロン地方だった。
雨がしとしと降っていて（どうしてかブラでは”しとしと”というかんじがしない）、
森や丘の雑木林はまったく日本のどこかのような色をしていた。

帰ってくれば、ヴァカンスあけの現実が待っていて、
テレビでもラジオでも町中からも
「休暇が終わってしまった！」と嘆く声が聞こえてくる。
アルマンドは店を片付け始め、ディーノは仕事に戻り、
海から帰って来たトニーとヴェスナも早速様々な心配事に頭を悩ませている。
私はといえば、なんとなく４年目の風向きが変わってくる気配を感じながら、
書かなければいけないことが書けずにいらいらしたり、映像の細かいチェックにてこずったり、
新しい仕事の話などに驚いたりしながら、夏を終えようとしている。
唯一顔をしかめず楽しんでできることといえば、
秋にやる市民料理講座のレシピ書きぐらいか・・豚汁や親子丼について考えるのは楽しい。
それでもコワイ顔ばかりしてはいたくないので
なるべく笑うようにしなくっちゃ・・と週末の老人サークルのダンス会にも顔を出した。

最近そのサークル会員のあるおじいさんが死んでしまった。
私にとってはおじいさんというよりおじさんで、
高齢者という言葉がまったくふさわしくない会員たちのひとりだった。
フランキーノが死んじゃったよ、と会の世話役のジョルジョに言われて、
何歳だったの？とびっくりして聞くと、７６歳だったという。
フランキーノはいつも私の顔を見れば、まず「ミヌ！」と大きな声で言い、
ふたこと目には必ずいやらしい冗談を明るいトーンで言う人だった。
６０代でも十分通っただろう。

教会のお葬式で、他のじいさんたちの死に慣れたかんじや落ち着いた様子を見て、
変わっていくってことに強くなくっちゃいけないなあと思う。
アルマンドはトリノに働きにいくことになったし、フランキーノは死んじゃうし、
ベルギーの牧草地は住宅地になるし、良きにしろ悪きにしろ、または良くも悪くもなく、
時がたつということは何かが変わっていくということだ。

じいさんたちは長く生きた分だけ変化っていうものを知っているんだろう。
どちらかといえば変化に満ちて生きてきたような私が言うのもなんだけれど、
やっぱりどこかで脱皮や”展開”は怖いものだ。

「ブラにはもう”お客さん”として来るよ」と店終いまぎわに言っていたアルマンドに、
「アルマンドはいつもアルマンドでしょう・・」と励ましたつもりだった。
それがことの運びがよかったのか、一週間に一回はプレイステーションの補充のためにブラに立ち寄ることが決まったと聞いた。（新しい仕事場はおもちゃ売り場なのだ。）
今までどおり、時々はいっしょにお茶を飲んだりすることもできる。

来月には久しぶりに映画祭に呼んでもらうことが決まり、１年ぶりにまたサルデーニャ島へ行くことになった。
ここ１年はブラの生活が落ち着いたこともあって、よその土地へ行くのがおっくうな気もしていたけど、
出不精になってはいけないなと反省していた時だった。


たまには短いブラ通信も良いものですね。明日から１週間ローマ行きですので、
コメントして下さったら、帰ってきてからお返事します。
おいしい日本の秋の味を堪能してください。

脇山みのぶ
        
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    <title>移民の夏</title>
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    <published>2006-07-03T15:52:56Z</published>
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        <![CDATA[ブラはもう汗かく夏模様。
イタリア北部に限って言えば、７月の方が８月より暑く、
来月になればもう秋めいた風が時々吹いてくる。

それでも来月になってからヴァカンスに行く人が多いのは、昔からの習慣なのか、
ピークを避けて７月に旅立つことができるラッキーな人たちを除き、
８月に２週間ほどお休みをとるのが普通のようだ。

既に６月あたりから人々の間で「ヴァカンスはどこへ行くの？」という話題が増え、
テレビや雑誌はヴァカンスについてくり返し、
折り込み広告もヴァカンス用のサンダルや水着、
クーラーボックスなど夏模様を帯びる。
一緒に旅行する人が見つからない、確かなアイディアが浮かばない、
行きたいが予算が難しい、などの状況を抱える人にとっては、あせりを感じる季節だ。

「こんなに心配のたねになるんだったら、ヴァカンスも意味がないよね」と、
チーズ屋さんのレナータに言うと、
彼女はだんなさんを亡くしているので、ヴァカンスの友を探さなくては
いけないのと、９０歳代のご両親がいるので、たとえ彼らが健康とはいえ、
ちょっと海外など出ると心配になってしまうそうだ。

「１０年ぐらい前まではね、もっと簡単だったわよ。
近くの海に短期アパート借りて、行って帰ってくるっていうだけでね。」
それが少しずつ、人々がお金を持つようになってから、
飛行機に乗って海を渡るの普通になり、
今では近場のヴァカンスなど時代遅れという感がある。

そういう私とディーノも、８月半ばにベルギーまで車で行くことにした海外組だが、
「ベルギーなんて悲しいところにどうして行くの？」と幾人かに言われた。
ヴァカンスは海！またはエキゾチックな国々、
モロッコ、トルコ、キューバ、インド・・そんなイメージのあるイタリア人にとって、
ベルギーはとってもつまらない場所に感じられるらしい。

確かに、８月後半のベルギーは、もう既に夏を過ぎているだろうし、
曇り空も雨も多いだろう。
それでも、２０代の最初にベルギーに行った私と、
これまたイタリア人にしては珍しくベルギー経験者の
ディーノ氏としては、
車で行けて静かに過ごせる場所の第一候補がベルギーだったのだ。

そのベルギーは、１０年前私が行った頃ユーロ通貨がまだ導入されていず、
ベルギー・フランが使われていた。
国営サベナ航空も破産前で、成田から直行でブリュッセルまで飛べた。
スターバックスもまだなかった。
今はどうだろう？　

ちょうど先週、リエージュというベルギー南東部の街で、
子供ふたりが暴行・殺害された事件があり、
容疑者としてモロッコ人の男性がつかまった。
この冬は、やはり移民の若者がベルギー人の男の子を殺してしまい、
被害者の両親を先頭に移民対策を要求するデモ行進がブリュッセルであった。
目的は彼の持っていたアイポッドだったという。

私が行った頃も、ちらほらと移民の人たちは眼についた。
初日にバスに乗って、停留所がわからなかった私を助けてくれたのは、
やはりモロッコの人だったし、
小さな雑貨店で買い物をした時「どういたしまして！」というフランス語を
教えてくれたのは、太陽のような明るい笑顔のトルコ人の女の子だった。
それでも移民の存在が目にあまるという印象はなく、問題が生じているという空気もそう感じられなかった。

一度訪れて良い経験をした国を何年後かに再訪するのは、少し決意がいると思う。
きっと変わっているだろうなあ、と予想する。
それが良い方向に変わっていることって、そうあることではないだろう。
バリ島の奥まった村に昔行ったことがあり、
そこも「もう一度行きたいが、行きたくない場所」のひとつだ。

それでも、移民の問題はベルギーに始まったことではない。
イタリアでもおなじみのことだし、私もここでは 、extracomunitari エクストラコミュニタリーー「EU外の国の人」という意で、やや差別的に、それでも日常的によく使われるーー、移民のひとりだ。


５月末に、滞在許可証更新の申請をするためクーネオ警察まで行って来た。
今回の更新は、昨秋に労働ヴィザをとってから始めての更新で、
今までとは勝手が違う。
仕事上の金銭出納がチェックされ、会計士の書類を確認され、
発行した請求書も一部提出する義務がある。
それもこれも、外国人がヤミで働くことを防ぐためで、
そろえる書類は何種類もある。

日本でもだいぶん報道された４月のイタリア総選挙では、右派の首相が左派に負け、
５月からやっと少し民主的な政府になった（はずだ）。
移民に関する法律も緩和に向うのではないかと
在伊外国人はみな期待しただろう。
制度や法律がさっさと変わるイタリアにおいて、
政治家の判断がいかに自分の生活に影響を及ぼすか、
私もはっきりと自覚するようになった。

「外国人」って、自分の国にいる限りは絶対になれない。
それはイタリアに来た最初の頃、ミラノ移民局で指紋押捺をさせられた時に思ったことだ。
インクを手にべったりつけられて、なんだかこれは犯罪者のようだ・・。
日本でもよく報道されている、在日外国人の「指紋押捺」論議にいかに自分がゼロ無関心だったか、
考えた。

イタリアの場合は、県によって更新の提出書類が違ったり、手続きに微妙な差があったり、
この国のすべての制度に共通していることだが、地方差がとっても激しい。
このクーネオ県では、大都市ほど移民の数が集中していないため、
警察での対応や待ち時間もミラノにくらべてましなように感じられる。
それでも１２畳程の小さな待合室で３時間立ちっぱなしで待ち、
入りきらない人々は警察署の外まで８０メートル強ほど列を連ねる。
雨が降ればみんなで傘をさして待つ。

移民局職員たちは、東欧系や黒い肌のエクストラコミュニタリを
日々イヤという程見ているので、幾分いらいらしている。
窓口のこちらとそちらでけんか腰になることもある。
一枚でも書類が足りなければ、長時間待ったかいもなく、また引き返す。

そんな移民局ですごす時間は、どの移民にとっても楽しい時間ではない。
窓口で呼ばれたら何か言われるだろうか？今回の申請には問題はないだろうか？
もしかして、まったく名前を呼ばれないのでは？？なんて不安が伴い、
それ以上に、
椅子もほとんどない待ち合い室にぎゅうぎゅうづめで待っているのは、
どうも「下に置かれてる」感じがする。

日本人であることは、モロッコ人やセネガル人、ルーマニア人、
アルバニア人であることよりかなり有利で、優遇視されているはずだ。
クーネオ警察ではどの国民も一緒に列を作るのでその点まだ平等だが、
トリノ県警察では国籍によって窓口の時間帯が違うと聞く。
事務手続きの効率化が名目とはいえ、やっぱり裏には国ごとに人を見る区別感が働いているのだろう。

それでも、いっしょくたな待合室は、時にはそう悪くもない。
アフリカ系の女性に連れられた赤ちゃんが、にこにこと待合室を
動き回る。他の女性のひざに上ってネックレスをひっぱろうとする。
髪を細い三つ編みにした彼女のお母さん（お姉さんだろうか？）のパスポートには、
コートジボワール、とあった。
一方、頭を覆ったモロッコ人女性と来ている３歳位の男の子は、
待合室の状況とお母さんの真剣な表情とは関係なく、
いないいないばあをして私に遊んでくれといった風。

待ち合い室の中で、違う国出身の移民たちが世間話をすることはほとんどない。
どことなくみんな押し黙っている。
これが外で列を作っていると、屋外の開放感からか
それともまだ何時間も待たなければいけない絶望感からか、言葉をかわすこともある。

ワインのぶどうつみを何年もやっているアルバニアの女性、
昔アルゼンチンに移民したイタリア人の子孫で、
親戚を頼ってイタリアにやって来た人、などなど。

それでも、移民の中には実に信用できない人もいるってことを、
私たち移民たち自身もわかっているので、誰彼となく話していいという雰囲気は絶対にない。


９時過ぎから待ち始め１１時半を過ぎ、そろそろ希望もつきて来た頃、
モロッコ人の男の子に気を取られていた私は、自分の名前が呼ばれたのに気がつかなかった。
列を作っている東欧系の顔立ちの男の人が「ミノブ！」と言い、
続けてもうひとりアフリカ系の人が「ミノブ！」と声をあげた。
それでやっと自分の番が来たことがわかった私は、ありがとう！と言って
手続き窓口へ急いだ。
どうして私がミノブだってわかったのかな？　
待合室の中では、連帯感のようなものも時に感じられる。


その日更新手続きが終わっても、一件落着ではない。
「EU外の国民」の急激な増加で、新たに許可証がおりるまで４ヶ月半は待たされる。
その間は「滞在許可証待ち」で、国外に出てもイタリアに再入国できる保証はない。
なんといっても、問題なく新しい許可証が下りるのかどうか・・？不安である。

あのコートジボワールの赤ん坊や、モロッコ人の男の子にとって、
イタリアはどんな国になっていくのかなあ、と思う。
今やイタリアでは外国人の両親を持つ子供が５５万人いて、その半分が
イタリアで生まれだ。
このブラも例外ではなく、先週、友人ヴェスナが産婦人科に行ったら、
待合室には６人のアフリカ系の妊婦がいたという。
居合わせたブラの老婦人は苦々しい顔つきだった、とヴェスナは言う・・。


サッカーのワールドカップで、彼女の出身国、
クロアチアも日本に少し知られるようになった。
東のヴェネツィアを越えればすぐ隣、
イタリア人にとってクロアチアの海はヴァカンス地でもある。
イタリアで生まれ育ったヴェスナがクロアチアに帰ることはほとんどないが、
今年はトニーと海辺の親戚のうちへ行くそうだ。
彼女にとっては、「母国に帰る」旅ではなくて「休暇に行く」旅なんだろう。

そのトニーが休暇をとれたのも、ワールドカップで、彼の働く映画館に人が来ない