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2006年04月05日

ちらしと共に

春がブラにやってきて、急に温度が上がったかと思うと
気候はまるで5月のように暖かい。
ブラの人たちがよく「眠い」とか「だるい」とか言っているのは、
いっきに冬のコリが解けて体がゆるんでしまうのか、それとも
コリが解ける速度が春の速度に追いつかないんだろうか。

今年の冬は長かったらしく、
この地方のニュースもその記録的長さを報道していた。
秋の1ヶ月を日本で過ごした私にはそう長く感じられなかったけれど、
確かにロシアからのガス供給が少なくなって
ヒーターの温度が全国的に下げられた時は、さすがに春が待ち遠しかった。

他州の人に「愚痴っぽい」とちゃかされるピエモンテ州の人にとっても、
この頃の好天気には言うことも少ない。少々眠いことを別にすれば、
街行く人も車の運転席に座る人も、皆少し明るい顔をしている。

2月のオリンピックのにぎわいも過ぎ、このピエモンテ州もやっと通常に戻った。
トリノから車で1時間弱のブラではその影響も少なかったが、
パオラなどは「トリノがいつもと違って国際的なのよ!」と喜んで週に何度も出かけていた。
私は、カナダから友人がオリンピックに仕事で来ていたため、
何度か彼女に会いにトリノへ出かけ、それなりにこのシーズンを楽しませてもらったと思う。

トリノの地場産業、自動車の「フィアット」が落ち込んでいるせいで、
街としてのトリノはさびれかけている。
観光の街としても今いちアピールしきれていないし、地元民のための
街づくりも方針がはっきりしない。
「オリンピックが終わったらすべて今まで通り、さびしい不況の街に戻るんだ」と言い切っていたのは、
トリノの日本食レストランで働いているロレンツォだけれど、
開催中はお祭り騒ぎに皆忙しく、その後のことまで考えていなかっただろう。

それでも、誰がここまでトリノオリンピックがやると思っていたろうか?
寸前まで工事は続くし(地下鉄はオリンピック開催中もまだ一部工事が続いていた)
トリノの街中だって寸前までオリンピックの雰囲気はなかった。
それでもふたを開けてみればゴージャスなセレモニーを決行してしまうのだから、
イタリアの人の「みてくれ」にかけるエネルギーもすごい、と思う。

そんな騒ぎも横目に、2月のまだ冷たい空気の中で見つけた春の兆しは「オオイヌノフグリ」、
ブラの農地の道ばたに咲いていた。
ここに住むもう一人の日本人の子も言っていたけれど、日本の草花や自然は食べ物以上になつかしくなることがある。
そんな時小さな花でも、というか小さな花だからか、日本と同じものを見つけるとうれしい。

私のうちから5分も歩けば、植林されたポプラが並ぶ農地が広がっていて、
ブラから他の周落へ抜ける農道になる。
ディーノは「子供の頃友達と自転車で飛ばしに来た」と言っていたけど、
今は30年前と違って自動車がスピードを出して走っているため、
子供の軍団がチャリンコで飛ばしている姿はもう見られない。
現在のディーノにとってはジョギングコースとして、
4キロほど走って帰ってくるのにちょうどいいらしい。


オオイヌノフグリはイタリア語ではなんというのだろうか?
日本語のこの花名の由来をイタリア語で伝えるのはちょっと難しい。
昔の人は随分とイマジネーションが発達していて、自然のものを見て名前をつけたり、ことわざにしたり、今とくらべて発想が豊かだったのかもしれない。

そんなオオイヌノフグリも、3月の末ほどになると色がめっきり濃くなっていた。
その色の濃さはちょっと日本のフグリには見られない濃さで、やっぱり
土と空気が違うんだ、と思う。

日本の梅や桜が見られないのはもちろん哀しいことだけど、
それ以上に「沈丁花」の花がないことが
私の春の感覚を麻痺させている。それは母と電話で話していて気がついた。
千葉の実家の庭は結構花があり、それはその時当たり前のことだったけれど、
実は大事なことだったような気がする。

気温は上がっているのに、どうも「春を感じないなあ」と思うのは、
花粉症ともつかないぐずついた感じがするだけではなく、慣れ親しんだ
春の匂いを感じないせいだったらしい。

ショーウィンドウの飾り付けをする仕事を始めたばかりのコリーナが、
老人たちのフェスタがあるから来る?と3月半ばに誘ってくれた。
まだ寒い日曜日に、30人ばかりの老人と近所の人がワインと歌で集っている。
クマの祭り、と言っていたからきっとクマが冬の冬眠からさめてくる頃の春の集まりなのだろう。

アコーディオンに合わせて踊る「リーショ」(ワルツ、ポルカ、マズルカなどを2人で踊るもの)
はまだ私も初歩ステップしか教わっていないけれど、おじいさんがうまくリードしてくれると
なんとか踊れてしまう。日曜の午後の日差しが窓から差し込んで、ワインも軽く飲んでゆっくり踊っていると、やっとじわじわと体の中に春がやって来た感じがした。

去年ほど移動が多くなく体力的なハードさがない冬だったとは言え、
ブラで腰を落ち着けて映画についての財団への補助金申請やら、県庁との上映企画についての話し合いやら、記事の企画の持ち込みやら、
なんか常に希望を失わないっていうのも気力がいるもんだなあ、
なんて少し息切れしたりしていた冬、そういう時春の感じが起こってくることは重要だったりする。

3月には秋から話合いを続けていた中学校での家庭科の授業がやっと始まって、
ブラ近くの小さな中学校でオスシを作った。
最初は「”日本の食生活について”お話してほしい」という話が、
いつのまにか「一緒にスシを作るのはどうか」になり、
果てはひとクラスだけじゃなくて全6クラスの生徒、になり、
メニューの検討から材料について、日取りについて、何もかも長期計画で話し合い、日本の学校とは全く違うコトの進行ぶりに改めて驚いた。
(ミラノで小学校の先生をしてたヴァレンティーナによれば、”それは田舎だから”だそうだ。)

スシが流行なのは既に当たり前だけれど、子供たちもよっぽど興味があるらしい。日本の小学校5年生から中学校1年生にあたる「スクオーラ・メディア」に挨拶に行って、「スシを作りまーす」と言うと、わああ!と歓声があがったりする。

私の時代の「家庭科」(今はこの教科は総合学習と呼ぶらしい)は、
調理実習と言えば時間との戦い、手分けしてご飯をといで、鍋に入れ、卵液をフライパンに流し込み、シャケをソテーする、時間切れならそのまま卵液は瓶に詰めて持ち帰り、そんなハイスピードが要求される時間だった。
ここだって時間が無限にあるわけじゃないが、班分けして右へならえで料理させるという形態ではなく、
エプロンを持って来た子が自発的に私を補助する、という形だったので、
その分子供たちは肩の力が抜けている。

小さな2階建て校舎に全校生徒120人、約20人のクラスが6つのこの学校はとてもアットホームだ。
日本の学校より少しばかりにぎやかかなあと思うけれど、どうだろう。
家庭科担当のマリア・グラツィアは、子供がさわぐと「頭が痛くなるわ!」と嘆き、
よく「静かにしなさ〜い!」と要求していた。そういうシーンは私の子供のころと変わらないと思う。
今回私を呼ぶことにしたのは彼女の発案で、「生魚なんて学校で食べさせて大丈夫?」とか
「まぐろ20人分も毎回買っていたら高くつくのでは」と
私の方が心配していたけれど、彼女は自分がお寿司好きなことも手伝って、
予算オーバーしたら自分が出すと言う位だった。

2、3年生とは「ちらし寿司」を作る一方、
お料理に慣れていない1年生とは何か簡単なお菓子を、と言われて、困った。
あんこは豆の甘いのが西洋人には難しいし、本格的な和菓子では手間がかかりすぎる。結局、私の好きないつもの「白玉だんご」を作ることにして、
白玉粉は私の地元の松戸名産「玉三白玉粉」を川光産業から寄付して頂いた。
「きなこやみたらしだれでは、イタリアの子供にはわかりくいんじゃない?」
と日本食通のロレンツォに指摘されて、正直言って今でも白玉のタレには迷いが続く。(でもたぶんアーモンド・ミルクと白ごまを混ぜることで解決するかと。。)このクラスはまだ未決行で、4月後半にふたクラスと実習することになっている。

握りとか高級なお寿司とか、お金さえ出せばどこでも食べることができるけれど、
あの「うちのチラシ」ってのはお店では食べられないなあと思う。
うちの母なんかは瓶詰め「ちらし寿司の元」をご飯に混ぜて作っていたけれど、
それでも錦糸卵なんかはどうしても自宅で作らなければいけないから、
やっぱり手作りの味として心に残っているものだ。

だからちらし寿司は「お金では買えないものなんです」とクラスで説明する。
さらに「ちらし寿司は愛をもって作るものデス」と
ものは言いようで追け加えると、ある子が
「そんで愛をもって食べるんだよね!」と言った。一本とられたなあと思った。

赤いまぐろと黄色の錦糸卵、緑のグリーンピースをすし飯にのせると「ケ・ベッロ!」(きれい!)と
子供たちが言うから、うれしい。
お箸で食べるのもしょうゆの味も何もかも新鮮で大騒ぎ、そして多くの子が気に入ってくれたらしい。(私のうちにご飯食べに来たいと言ったやんちゃな子までいた。)ある週は週3回も朝からちらし寿司を作り、私は寿司に食傷気味になったが、長きに渡って計画された家庭科の授業もやっと3分の2が終った。

長くとりくんだ記事も一本終わって、ようやく本格的に春かなあと思うこの頃。
この春はどういう春になるかまだわからないけど、つぼみが少し開けばいいと思う。
明日から短い旅行に出て、来週にブラ帰りです。
また日本の春の様子もお知らせ下さい。

脇山美伸