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2004年12月23日

エフィーズィオが見ている

12月の4日から21日の今日まで、15日間のあいだに2つのバッグをなくした。

ひとつは、イタリア南部のサルデーニャ島で今朝置き忘れてしまったビニール袋。
サルデーニャの主要都市、カリアリの空港ベンチで「お水を飲もう」と思ってスーパー袋を探したら、ない。

またやった!と思いつつ、なんせなくしたものは「スーパー袋」だから、中に入っていた物も
そうたいしたものではないかも、と記憶をたどってみる。

昨日買った2本のバナナ、まだ食べていなかったのに。
それから、文房具屋さんで見つけたかわいいリサイクルペーパーのカレンダー、7ユーロしたのに。ああ、後はなんだっけ、、とがっくりしながら、電話をかける用があったので、気をとりなおして携帯電話をにぎる。

12月の初旬には、もう少し大事なものをなくした。
築地の洋品屋さん「若松」で見つけた600円のタイ製バッグ、藍色の長方形の布で、地味だけどぽっこりしていて可愛かった。
その中に入っていた着物用のぞうりと、それからお茶用の小物一式と、ミラノのお茶の方からもらったその小物を入れる手作りの袋、イタリア語・日本語の辞書と文法書、読もうと思っていたイタリアの週刊誌の「雅子さま記事」、それから頂いた小さなお菓子。

どちらも、電車かバスに乗るために急いでいた時に、いや、何より他のことに気をとられていた時に置き忘れているのだから、自業自得である。タイ製バッグはミラノの地下鉄の中で、コインねだりの音楽師が車中コンサートをしていた時に、なかなかいい音楽だなあと気分良くなっていたところ、下車する時に4つか5つ運んでいたカバンの中のひとつを、持ち上げるのを忘れたらしい。
今日忘れたサルデーニャのビニール袋は、バス停で空港行きバスを待っていた時に、「サルデーニャ新聞」に載った私の写真付き記事を読んでいて、まいったなあ、やめてほしいよねこういうのは、とため息をついていて、これもやはり、地面から持ち上げるのを忘れたのだ。

ミラノで忘れたタイ製バッグについては、ピエモンテ州に帰る電車の中で気がついた。昼ご飯のパンとチーズを食べよう、と思ったら、チーズを切ろうと思った果物ナイフを取ろうとして、それが入っているはずのバッグが「ない!」。
前に座っていた男の人が、私の「ない、ない、ない」という様子に気がついて、「何か忘れたの?」と聞いてきた。

電車の中で座る時、ーーたいてい長距離列車は4人がけコンパートメントに座るのだけれどーー、なぜか「あ、ここ」というインスピレーションで座ることがある。
どうして、この背広のビジネスマンの前に座りたいのか、この場所を選んだ時はよくわからなかったが、話してみたら彼も映像の編集をしている同業者だった。

列車で移動していると、色々な人と話をすることがある。
知らない人どうしの間で話すことがそう特殊ではないこの国で、特に私みたいに東洋人だと、興味を持って話しかけてくる人も多いのだ。

”パオロ”とはひとしきり映画の話をして、それから彼がいつか作りたいと思っているドキュメンタリーの話を聞いた。
ーーヨーロッパでは、戦後「哲学」が失われたと思う。みんなアメリカの考えを受け入れてしまって、ここの土地にあった哲学を捨ててしまったんだ。”それが何か”ってことをドキュメンタリーにしたいんだーー
30代半ばかと思ったけれど実は29歳、ひとつ年下のパオロは、
「マンマは俺は政治家に向いてるって言うんだよ」と言うぐらい、激しく語る。
「それが何か」ってのは難しいよネ、日本の場合だって「失ったものが何か」ってことを見せられるドキュメンタリーなんて、簡単ではない。だって”失ったもの”、は影も形もないのだから・・。

ちょうど、先月11月のブラでは夜のご飯後に、”ラディチ・ディ・ヨーロッパ” (ヨーロッパの根源)というタイトルで3回のレクチャーが開かれていた。
おじさん、おばさん、中にはおじいさんも、30人ぐらいが三々五々集まって、「ヨーロッパとは何か」についての講義を聞く。哲学思想や、政治についてのテーマをもとに、キリスト教がヨーロッパに与えた影響、EUが戦後どのような考えをもとに始められたか、その時政治家たちはどのような動きをしたのか、など怒濤のように1時間がすぎ、そしてその後各自が自由に質問や意見を述べる。

ヨーロッパが何か、というのは、EUの統合が進む中で、小さな疑問としてふとみんなの心に現れるようなことなのかもしれない。
ヨーロッパをつないでいた宗教的思想だって生活の中からほとんど失われている。イタリアの通貨・リラはユーロになって、「通貨統合などしたくはなかったのに」(と、参加者のひとりは言った)物価だけが上がって、そのメリットが実際の形では暮らしの中で感じられない。
「我々は信仰を取り戻すべきだ」という意見も聞かれ、信仰とまで言わなくても、「スピリチュアリティー」 ーーそれが何の、どういう形いおいて、かはわからずともーー「精神性」をとりもどすべきなのだ、という危機感はうっすらと人々の中にあるように思う。

和気あいあいとしたクラスで、私が9時に遅刻すると着席した状態で皆待っていてくれたり、よく来たねえ言葉が難しいだろうに、なんて言ってくれたものだった。

トリノのひとつ手前の駅で降りて、パオロは仕事に向かっていった。もしバッグをなくしていなかったら、彼が私に話しかけるきっかけはなかったかもしれない。
「いや、この女の子、いったいどこに行こうとしているのかな、と思ってたんだよ。」と言っていた。

ミラノでお茶のお稽古が終わり、気分がすっきりして帰ってきたところ山のようにやることはある。
ジョリさんとは地元商工会議所への報告提出書類をやっとそろえ、奥の間のお偉いさんに出してきた。チーズ商ヌードカレンダーの日本発送も終わったし、私は10月のローマ・お茶セミナーで撮らせてもらった各国のお茶人たちに、進行状況を知らせる長い手紙を英・伊文で書いて、電気技師のジュゼッペに見てもらう。

だめ!これは意味わかんない!ここは文法間違ってる!とざくざく直されて、私のイタリア語がいかに行きあたりばったりでしゃべっているか、再認識させられた。いつも思うことだけれども、本当に勉強しなくっちゃいけない。

ブラに住み始めて1年、これからはばちゃばちゃと一生懸命バタ足をしているだけでは駄目で、ちゃんとクロールしたり、バタ足にしても足の伸ばし方に気をつけて甲を動かしてみたり、たまに平泳ぎに挑戦してみたり、いろんなことを深めなきゃ駄目なんだ。。。

そんなことを思っていたら、イタリア語の文法書の中にイタロ・カルヴィーノ氏の言葉がぽつりと載っていた。

「はじめて見る海底は美しい。だがその醍醐味は、
Un fondo marino e' bello la prima volta, quando lo si scopre: ma il piu' bello,

何事もそうであるように、
come in ogni cosa,

ひとかきごとに、そのすべてを知るにおよんでからである。」
viene dopo, a impararlo tutto, bracciata per bracciata.


さすがねえ、文章家の言葉は。なんてきれいなのでしょう、と思う間に勇気が出て、小さなメモ紙に書いて玄関の壁に貼っておいた。

「今日はどうしてる?」とか「りんごが安いわよ」という種のことだけじゃなくて、言葉はやはり、
きちんと心の奥底を表現してくれるようなことを吸収していきたい、、と思ったのだった。

海の底は美しい、と言われたそばから、今週の星占いの私のコーナー(魚座)には、「海は、その果てに何があるか、まだ見えていないからこそ美しい。」という詩の引用と、「だから先が見えなくてもがんばれ!」というようなことが書いてあった。

その言葉どおり、週末、サルデーニャのカリアリでアンティーク・オークションの撮影をする予定が、きゅうきょ延期される。企画者のルチアーノは、「問題がいっぱいで自殺しそうだ」と叫びつつ、オークションの司会をする「バッティトーレ」がいない、と携帯電話ごしに言うのだ。

強引なルチアーノのことだから、なんだかかんだか言っても実施してしまうんじゃないか、とは思ったが、金曜出発の予定をこちらも1日延ばし、さて今晩は開催するのか?という土曜日には何回も電話し、「どうなった??」と聞く。
15時すぎの飛行機に乗るために空港にたどりつくには、ブラを12時半には出なければならない。荷物も全部用意して雨戸も閉めて、空港まで送ってくれる友達も手配して、再度「どうなった?」とタイムリミットの12時半に電話する。「もうだめだ!延期だ!」のひとことで「じゃあ、いつやるのか教えてね。」で、土曜日はフリー、雨戸も開けて、荷物の中から用意した昼ご飯も出して、どうなるのかしらねえ、とソファーに座る。

日差しもよく、風も強いせいで、窓からはモン・ヴィゾ3841m含む山脈がよく見える。
今日は1日ぼおっとしたい、ずっと撮りたかった写真をうちの中で撮ったり、手紙を書いたり、それから編みかけのマフラーを終わらせた。

いったい明日、どこに私はいるのだろうか?
そんなこと考え始めたらやっていられないので、考えない。この1年でそういうことにだいぶ慣れた。

編みかけのマフラーは、去年から半分ほうぽっておいたもので、白とグリーンピース色が半分づつになっている。白い毛糸が途中で足りなくなってしまった昨年冬、パオラに「どうしよう?」と相談したら「違う色で継ぎ足したら!」と、言われたのだった。「グリーンピース色」も彼女のアドバイスで、カラフルな色使いが好きなパオラらしい。ぴったりの毛糸を探すのに時間がかかって、やっと今年できあがる。

長いマフラー1本に半々の色だと何か少しおかしかったので、いっそのこと2分の1で折り返してしまう。巻くのではなく、和服のえりのように「重ねる」方式の短いマフラーにした。
両脇を袋状に閉じたところに、少しだけ「閉じない部分」を作って、そこに片方の端を入れこむ。

いやあできたできた、本当はパオラにクリスマスプレゼントにあげようと思っていたのだけど、なんだか和風のマフラーになったら、私の方がよく似合う気がする。こりゃああげるのはやめよう、とすっかり自分のものにしてしまった。

食べもの文化を学ぶためにスローフード協会が作った大学で、職員として働くアメリカ人のキムも、私と同じ時期に歴史地区の住居から出た。暇つぶしに編み物をする同じ趣味の彼女に、電話をかけて見せに行く。前住んでいた建物も一緒なら、引っ越し先も同じ「新興住宅地ゾーン」で、歩いて5分かからない。

編み物は誰かが側にいる時も、おしゃべりしながらで針がすすみ、でも、ひとりでじいっとしながらやるのもいい、と私は思う。
キムの台所テーブルの上にもピンク色の毛糸で編みかけの帽子があった。彼女はクリスマス時期にはカリフォルニアの実家に帰るから、準備をしながら今は静かに過ごしているようだった。

夕食はパオラも誘って、女3人でピザを食べに行く。ビールを飲んで、食べきれないというキムの分のピザまでたいらげて、デザートまで食べて、その日の夕食は終わり。

まさか、これで明日飛ぶ、なんてことにならないでしょうね、なんてテーブルで思いながら、いや、なんとなく飛ぶような気がする、という予感は確実にある。

10時半帰宅、カリアリのトラットリア(食堂)で夕食を食べているルチアーノから電話、
「大失敗だ。延期したかったんだけど、やっぱり人が来ちゃって、やるしかなかったんだ。来場数は25人ぐらいだ!」
「・・ってことは明日もやるんでしょ。じゃあ明日、わたし行くわけね。」
「そう明日、いらっしゃい。」
のひとことで、すぐにネットで飛行機の予約。夜11時。

なんのために行くかと言えば、カリアリ市にとって大切なキリスト聖人”エフィーズィオ”の像を、「引き車」に入れて運ぶお祭りが毎年5月1日にあり、その「引き車」、日本で言えばおみこし、“コッキオ” を修復する作業について記録してほしい、と頼まれたのが発端である。

ルチアーノはだいたいおかしな人で、チネマ・コルト・インブラ映画祭のスローフード・オン・ドック部門で大賞をとった「山の声」のアントネッロが春に紹介してくれた。65歳と30歳ののふたりはとても仲がよく、ひんぱんに連絡をとりあっているのだから、年齢というのは、やはり何かを超えてしまえば関係ないのだと思う。

アンティーク商のルチアーノが私を始めて見た時どう思ったのかは知らないけれど、私の映像作品を見たわけでもないのに、すぐさま「レスタウロ(修復)のドキュメンタリー」を提案してしまうのが、イタリア人らしいというのか、ルチアーノらしいところだ。

エフィーズィオ像を入れる「コッキオ」は1600年代の終わりから使われている年代もので、その車輪の部分が今、壊れている。
それを直すのに「6000ユーロ」(100万円ぐらい)以上かかる、というのだから、コッキオの古美術品としての価値は相当なものらしい。

ただ、その資金を集めるのに、「ではアンティーク品のオークションをやろう」とサルデーニャ・アンティーク協会のルチアーノが言い出したのが11月、私が展示会のことで下見に行っていた時のことで、「いつ、やるわけ?」と聞いたら「来月やるぞ!」ーーあれよあれよと言う間に新聞に告知の記事も出して、晴れて開催、となったのだった。

キリスト教について不勉強な私には、この国にいてまだわからないことがたくさんある。
どれほどの人が信仰というものを持ち続けていて、たとえば国中にあまたある教会は人々にとってどういうものなのか?神父さんや尼さんたちは、いったい何をどんな風に考えているのか?
こよみの中に一日一日「聖人の日」があり、ブラの「ひとりぐらし老人の昼ご飯」時間にも、「今日はアントニオの日なんだ!」「今日はサン・マテオの日なんだ!」と、突然ワインを開けたり、お菓子を食べる。その聖人の名前を持つアントニオじいさんやマテオじいさんのための「オノマトペ」というお祝いらしいが、「何を、どういう根拠で祝っているのか?」がまだ私にはよくわかっていない。

さらには、イタリアの街には、それぞれの街ひとつひとつに「サント」(聖人)がいて、その街を守っている、と昨日カリアリの神父さんから聞いた時には、へえそうなんですか!と思った。「ミラノにはサン・アンブロージョ、ナポリには***、トリノには***・・。」ついていけない。
そして、「カリアリにとっては、それがエフィーズィオなんだよ」と神父さんは言った。

エフィーズィオ通りがあり、エフィーズィオという名前の道行くおじさんがい、エフィーズィオ・ワインバー、というバールまであり、カリアリの人々にとっては、”サン・エフィーズィオ”は「大衆的なものなの」、といつも行く食堂のおばちゃんが言う。

「今も」大衆的なものなのか、大衆的なもの「だった」のか、例えば若い人は、また違う感じ方をしていると思う。夕方17時からやっていたミサの席に10代20代の人は見られなかったし、それはカリアリだけでなく、ブラやミラノであっても、教会でお祈りしている人々がある一定の年齢層であることに変わりはない。ましてやキリスト教徒でない外国人だって、イタリア中で増えているのだ。

エフィーズィオの「引き車」を直すためのオークションだったが、1日目に引き続き2日目も人出が悪い。次の日には「オークション、ほとんど砂漠状態」なんていうタイトルで地元紙が記事を書く。
目標額の6000ユーロにはほど遠く、売り上げ1800ユーロ(25万円ぐらい)、3分の1にも満たない。
それにしても、ルチアーノはあきらめない。
「足りないんならまたやるのさ」とさすがに疲れはたまった、という顔で、しかしひとつ仕事をやり終えたという充実感いっぱいに、オレンジジュースを飲み干していた。

私のカリアリ滞在は2日間、最後には結局、私も地元紙に書かれることになってしまい、「いったいなぜ撮るのか」とか「何をどのように撮りたいのか」という、私にとってはナイーブな話を、記者さん相手にイタリア語で説明することになる。

「コッキオが私を魅了した」とか「サン・エフィーズィオへのカリアリっ子の愛に興味を引かれたとか」そういうことでいいんだよ、と私にまくしたてるルチアーノだったが、いや、私の撮る理由は「そういうこと」じゃないし、電話で2、3分話してすむようなことじゃない、そんなインタビューならしたくない、とオレンジジュースを飲み終えた私たちはカフェのテーブルで顔をつきあわせる。

「じゃあ、君は何にインテレッサータな(興味を持っている)んだ、ミノーブ、言ってくれ!」
とルチアーノ。それを説明するには今の3倍ぐらい語学力が必要な気がするけれども、言わないわけにはいかない。いつでもどんな時でも、同じ企だてに向かっている人とは、本気で戦わなければいけない時が来るものなのだ。

クリスマス前の夜7時、カフェのガラス越しに大通りの交差点がにぎわっている。

「・・コッキオは宗教的なのものでしょ」
「・・宗教というより、伝統的なものだ。」
「いや、伝統であることは確かだけど、でも聖人エフィーズィオを運ぶ以上、教会のお祭りなんだし、宗教と関わりはあるじゃない。」
「ふん。」
「でもね・・でもさ、そのコッキオを修復するために、つまりいろんなことがあるでしょ。誰がどういう風に苦労するとか、誰がうれしく思うとか、逆に、たとえば昨日のオークションみたいに何かがうまくいかない、失敗するとか。」
「”失敗”というわけじゃない!あれは..」
「いやいや、失敗じゃなくてもさ、いいことばっかりじゃないじゃない。昨日ルチアーノが他のアンティーク商とけんかしたり、コミュニケーションがうまくいかなかったりとかさ。」
「それは関係ない、なぜなら・・」
「まあちょっと待って・・、そういう“色んなこと”がさ、”コッキオ”の周りで起こってるじゃない!
”コッキオだけ”に興味があるわけじゃあないのよ!」
「・・・コッキオだけじゃない、ーーノン・ソーロ・コッキオーー、か・・。」

そこでルチアーノは笑い出し、「そりゃあいい。」となぜだか多いに納得したようだった。

やっと少し思っていることが伝わったのかもしれない。
このカリアリの2日間で、何を自分が見ようとしているのか、何を撮ろうとしているのか、少しづつ私にとっても明確になってきていている。それがまた、誰かに向かって話すことで、よりはっきりしてくるのだった。

元はチーズ倉庫だったという古い建物を改築した新聞社は、壁に一部レンガが残り、高い天井と大きなフロアーで、わいわいとカリアリ人が仕事をしている。若いジャーナリストが30分から40分ぐらいかけて話を聞いてくれて、まるで友達と話しているようなかんじだった。
夜の9時終了、外の広場でベンチに座る。

そこまで私に考えさせたのはなんだったのだろう?
教会でエフィーズィオ像を守る神父さんが、夕方私にこう言った。
「私にとってはサン・エフィーズィオが大切なんだ。エフィーズィオが私を守ってくれるんだ。」

自分を何かが守ってくれている、とはどういう感覚なんだろうか?
どういうことなんだろうか?
それを感じているのは、宗教職として神父をしているパードレだからであって、もしかしたら普通に暮らしている私たちにとっては難しいことなんじゃないだろうか?聖人がいくら「大衆的」(ポポラーレ)であっても、いったいどれくらいのカリアリ人が「エフィーズィオが自分を守ってくれている」なんて言うだろうか?

教会の中に置かれているエフィーズィオ聖人像を見ると、結構若いな、と思う。
「30歳で殉教したのだよ。」(つまり殺された、ということ。)
同い年ではないですか。
聖人エフィーズィオにも親近感がわく、というものだ。

彼はキリスト教を信じない「異端者」だった。その後改心してキリスト教徒になり、結局イタリア半島からカリアリに連れてこられてローマ人に処刑された。この宗教話は、まだ私には分かりかねるところがあるので、詳しくはここでは書かない。とにかく、カリアリにとっては、その後ペスト等の伝染病、フランスの攻撃から街を守ってくれた、という「実績」のある、聖人なのである。

その日の私は、エフィーズィオについての過去のドキュメンタリー作品を借りるため、街の映像図書館へ行かなければいけなかった。たまたま知り合ったビデオ・アーティストの男の子が、午前中そこに連れて行ってくれた。その後、用事があった金細工の修復士のところにも案内してくれた。ついでに、探していたその日の宿もさらりとみつかった。昼ご飯は文房具屋のマリアがおごってくれ、夕方はパードレと話をすることができた。インタビュー後の夜ご飯は「いつもの食堂」、ザイーラおっかさんがお魚をごちそうしてくれた。

「今日はね、君、幸運な日だったんだよ!」と結婚40年のコックおっとさんが私にそう言った時、「あ、エフィーズィオだ!」と思った。

そう、カリアリには エフィーズィオが「いる」。

パードレと話していた時、パードレの心の中にいる ”エフィーズィオ” を私が感じ、彼の中のその存在の確かさを知ってしまった時、そこに「私の」エフィーズィオが現れたのかもしれない。


インタビューに呼ばれた時も、エフィーズィオか?とは思った。
なにせ、この修復にあまり関心を持っていないカリアリ人に興味を起こさせることが、コッキオ計画にとって、今の段階ではとてもとても大切なのだ。

しかし、どうやって?

ーーニッポン人の女の子の写真でも新聞にのれば、ちょっと目新しいではないか、多少可愛さには欠けるけれどもーー
エフィーズィオがそう思ったのかどうか知らないけれど、彼が私を助けてくれているのならば、私も少しぐらいは役に立ってみよう、と朝のバス停で写真の大きさに絶望しながら思ったのである。

そんなことを考えていたらスーパー袋を忘れてしまった、というのが話の結末、長くなりましたが、
みなさんよいクリスマスを、クリスマスはキリスト様のお祭りでしたね。そういえば。

脇山みのぶ

2004年12月04日

ブラのクリスマス

パオラのうちから出て、ひとりで暮らしはじめてから2週間ばかりたったでしょうか。

日差しのよいこの集合住宅の一階からは遠くの山脈が見えて、街の中心部にいたころよりも
だいぶん静かなのだけれども、チェントロ・ストリコ(歴史地区)で ”長屋ぐらし”をしていた時から暮らしぶりはずいぶん変わりました。

何せ、下の階からおーいと呼ぶ人もいないし、ベランダごしにおしゃべりすることもない。前のうちでは1階も2階も3階も、誰かが風邪でもひこうものなら「あそこは風邪ひいたんだって」とすぐにうわさがまわってくるし、「ちょっとじゃがいもかして」と窓をたたく人がいたり、常に誰かと一緒に暮らしているかんじがしていたのです。
それが今では、1階から5階まで、だいたいの住民と階段ですれちがって「こんにちは」と言っても、お互いなんの仕事をしているかとか、どんな精神状態か、とか、この後どこへ行くのか?とか何もわからないし、聞かないし、そう会話が続くというものでもない。
不思議なものです。

でも、「困ったことがあったら呼んでくださいね」というオープンさが保たれているのは、あたり前、常識といったかんじ。。
実際雨戸が壊れて老人会のおじいさんに直しに来てもらった時、
「はしごありません?」と3つか4つのドアは叩いた。結局どこも持っていなかったのだけど。

クリスマスが近くなって、商店の人たちの「やだなあクリスマスだよ。。」という
愚痴が聞かれるようになると、そろそろ来たな、というかんじがします。
日本では商店街であの音楽が流れるとクリスマス、という記憶があるけれども、
そういえば音楽でせかされるかんじはここではしません。
電気屋のアルマンドは、「こんな仕事じゃなかったら12月から年明けにかけて海の果ての島まで逃げたい」とか言っているし、チーズ屋ジョリートさんのところで働くレナータは、だんなを事故で亡くしてからクリスマスは嫌いになった、と。。
いったい誰がクリスマスというものを待ち遠しく思っているのか?
子供たちかしら。

そういえば、アルマンドの息子のフランチェスコは、「今日クリスマスツリーを飾るんだ!」とごねていました。夜19時ごろだったので、もちろんなだめられて、その次の次の日に飾っていたけれども。。

私の部屋にも、その電気屋アルマンドからもらった高さ20センチぐらいの電池式クリスマスツリーがおいてあります。赤いランプがちかちか光ってます。

新しいこの部屋は、すっかりみんなからのもらいもので埋められて、大変節約になりました。
お金がないと、ごはんでもパンでも、テーブルでも椅子でも、ブラにおいては何かと恵んでもらっている私には大変ありがたい話です。

クリスマスでないのに、いつもクリスマスのような気分かもしれない。

おとといはジョリートさんのパパ、ジョリパパのところでお昼ご飯を頂いていて、
ジョリママ、おばあさんの話を食後に聞いていたところ、彼女は目が少し見えなくなっているせいか、時に話に脈絡がぽっとなくなり、突然なぜか「妊娠」の話に。

ーー昔はね、気をつけてないとすぐ子供ができちゃったものよ。
うちだってフィオレンツォ(ジョリートさんの名前)の前に一つ上の息子がいて、あんまりもう欲しくなかったんだけどね。
25日で毎月きっかり生理が来てたから1日か、2日遅れたらすぐ「妊娠したな」ってわかったもんよーー

イタリアでなぜか「高い」と思われるものに、生理用品があるのだけれども、昔はどうしていたのかなあとちょうど考えていた所だったので、失敬、と思いつつ、あのね何を使っていたの?と聞いたら
ーーtela テーラよ、綿でもないし、麻でもなくーーと言うから、日本で言えばたぶん「さらし」みたいなかんじなのだろうか?
洗って、重ねて、熱湯消毒もした、と。

ジョリートさんのおうちは4人兄弟で、一番上が弁護士、次がジョリートさん、その下が妹さん2人で、学校の先生。一番下の妹さんが、私も子供の頃テーラを与えられたのを覚えてるわ、と言ってました。

おじいさん、おばあさんと話すと色々他では聞けないことが聞けるもんです。。

ジョリートさんと私には、地元観光団体からの夏の日本旅行への補助金額がやっと決定し、
近々やっとお金が戻ってくることに。ほっと胸を撫で下ろすとはよく言ったもので、
私もやっとこれで年が越せる。。と文字通り胸をなでおろしました。

きのう市の広報のインタビュー時に知らされたことは、私たちが日本にいる間、
ブラのHPの日本からのヒット数が通常の4倍になっていた、とのこと。
サイトを見に行って下さったみなさん、どうもありがとうございます。
これで私たちの日本行きも、別にスシ食いに行った訳じゃないってことが証明された。
ジョリート氏ともども喜んでいます。

そのジョリートさんは、「ブラのチーズ商・ヌードカレンダー」を彼のアイディアで作り上げて、
そちらの新聞インタビューなどでさらに忙しい毎日。
ヌードと言ってもすっぱだかではないのが残念ですが、十分笑えます。

なんというのか、毎日はずいぶん早く過ぎて行き、あれもこれも終わらせなければいけないことは
山積みなのに、でも終わらなくて、1年はあっという間。
でも急いだってしょうがないし・・。

来年に向けて、違う映画祭への作品を「work in progress」(作成中)で提出してから、今年中に何ができるのかなあ、なんて考えました。

パオラのお母さんが病院に入っていた時に、imporatante e’ quello 大切なのはそのことよ、
と言っていたのが、よく思い出されます。元気であること。自分が自分としてよい状態であること、あたり前だけどそのことをめざすとずいぶんと難しいことだと思う。
クリスマス商戦の中、年末の物入りの中、支払いと家事、雑務の中、どうやったらよい状態でいられるか、ってのが。。

今日の夜はパオラのところにアイロンをかけに行って(アイロンがないため)、そのままそこでパオラが数日前に作った豆のスープと、ゆでたブロッコリーの残り物を食べて、さんざん星占いの話をして、11時に帰宅。夜パオラのところに遊びに行った時はだいたいうちまで車で送ってもらいます。
パオラはおとといベネトンで買ったというボンボン付きの変な帽子をかぶっているし、私は昔日本で友達に作ってもらった耳当てつきの帽子をかぶっていて、なんだかふたりともおかしな人に見えるよねえと・・。
明日からはしばらくミラノに行き、9日ブラ帰。せっかく部屋を借りたのに、毎月ごとに出かけていかなければならないのは、結局私の運命なのかもしれません。

それではみなさん おやすみなさい。最近は出発前にブラ通信を書くことが多くなって
少々せからしいですね。12月は教師も走るというから、イタリア人もイタリアにいる日本人も走るということで。。

脇山みのぶ