ブラの日曜日
近郊のラ・モーラから帰ってきて、ブラの日曜日の午後を過ごしました。
ほんとはひとりでぐったり眠りたかったけれども、私の部屋は昼間寒すぎてとても昼寝をする気分にはなれません。いちばん暖かいのは台所なので、台所でぼぉっとしたいところですが、パオラが見途中の映画 “パリ・テキサス” を居間で見るというので、私はそのBGMを耳に入れながら台所のヒータのそばで足湯と目と首の温湿布をしました。
疲れていると言っても、昨日は6時間ぐらい寝たじゃあないの、と思うのですが、
どうもやっぱり夜中に作業をするのはよくないらしく、お腹はすいても食べる元気が出ません。それでも目と首の疲れをとるだけで大分すっきりし、眠気もとれて、16時とは言え太陽も出ているし、夕方のブラを散歩してみたくなりました。
たいしてやることもない冬のブラでは、休日の夕暮れ時をぶらぶらと散歩している老人や子供たちがちらほら見られます。私の住んでいる、ブラの目抜き通りの”ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り”は、街の中心部に背を向けて歩いていくと病院やガソリンスタンドを超えて、人気の少ないブラ郊外へ抜けていきます。
ほほに冷たい空気が気持ち良いぐらいの寒さで、疲れも歩いているうちにとれてきて、どんどん歩きたくなって、ついには、誰も人がいないところまで行ってみたくなって、サンミケエレという集落まで坂を上ってしまいました。片道30分ほどです。すっかり葉っぱが落ちてしまった大木や、大きな邸宅の広い庭などを見ながらどんどん上ってしまいました。
いつもいつも人に囲まれているというのは、それなりにストレスなもので、いつのまにか、気を使い、神経を使っているんだなと思うことがあります。ブラから出る時、車窓から流れて後ろに行くブラを見たり、都会に出て歩いていたりするとほっとする時があります。それは、東京のように “たくさんの人に囲まれて” くる疲れとはまた違って、コミュニケーションの密度の濃さからくる「疲れ」で、ぐったり疲れる、とか力を奪われるとかいった類いのものとは違います。100m歩けば誰かに会い、チャオー元気?と言い、今日はどうしてただとか、明日はどうしてるだとか、一緒にご飯を食べないかだとかいうのは、ひとりっきりで何にも気を使わなくていい、というのとは全くちがう。
コミュニケーションっていうのは難しいものなんだな、心をくだくものなんだな、めんどくさいし、だからそれから逃げたくなる、それはブラにいて、また改めて思ったことです。日本のように、周りに気を使うだとか周囲を気にするということでもなく、ただ「人の中にいる」ことから生まれるコミュニケーションは膨大なものです。そしてそれだけ難しいものだからこそ、そういうものをはぎとっていったのが、都会というものなんだろうなあ、と思います。
いつもいつも誰かと一緒にいるのが好きなタイプでもない私は、ブラに住むことにしようかどうか迷った時に、このことが一番気にかかりました。ひとことで言えば、「息苦しく」なるんじゃないかなあということです。
5月にここに来ていた時、友達のヴァレンティーナ(26歳)はこういいました。「ブラでひとりでいるなんて、全然ここにいる意味ないわ」。ここでは楽しいことはみんな「誰かと」いる中にある。誰かとごはんを食べ、誰かと一緒に散歩し、誰かとしゃべる。でも、なおかつ私は「ひとり」の楽しみもちゃんとキープしたい。
ブラに移り住んでいるアメリカ人のジムは、あっさり私にこう言いました。「ぼくはひとりでいたい時はウチにいる」ーー何かしらの解決方法というのはどこにでも存在するのだろうなぁと思ったのでした。
サンミケレまでがしがし歩いて、大きな木を見て、好き勝手に立ち止まったり回り道したりして、そうして少し自分をとりもどすと、またブラの喧噪の中に戻っていくのがうれしくなります。
静かな林の中の集落から戻ると、ブラがとても大きな「人の住む町」に見えます。
17時過ぎのもう暗くなっているブラの裏道を歩いていると、脇を通り抜けていく車がきゅっと止まって、友達のアントニオが「何やってんの、車で乗っけてってあげようか」と声がかかりました。いやいや、散歩してんのよ、大丈夫、とことわって、またねーと挨拶すると、やっぱり人がいて、助けてあげようかって言ってくれるのはうれしいものだな、なんて思うのでした。
「みんな」と「ひとり」の間の距離感がうまくとれるようになること、それがちゃんと「ここ」で暮らしていく術のような気がします。
散歩から帰って、サンミケレまで歩いたんだよーとパオラに誇らしげに報告してから速攻ソファーに倒れ込み、1時間ぐっすり寝て起き上がり、それですっかり元気になりました。
夜8時から、(またいつものブラのごとく)近所のおうちにパスタを食べにいって、「フトンとはなんだ」とか「タタミの上にフトンをしくのか」とか、「私の使っている毛布はフトンと呼べるか」とかわーわーと議論しました。
パオラとパオラのお姉さん家族とマリーナ夫婦で食事していたのだけれども、日本についての説明にはいつもいつも苦労させられます。東京のワンルームマンションに住んでいる友達が「そういえばもう1年ぐらい和室に座っていないなあ」って言ってたこととか思い出されるけれども、それを説明するには万と言う言葉をつくさないと説明できないような気がする。
イタリアは「日本ブーム」です。なぜこんなにも日本の外では「ニホンニホン」と言われていて、それに対して日本国内ではニホンとは逆行するような状況なのだから、(和食ブームと雑誌等でさわがれていても、実際は3歩歩けばパスタ屋なのだから)不思議なもんです。
パスタの後に生野菜をみんなでばりばりかじりながら、マリーナが目を輝かせて、「ラストサムライ」(こっちでは“ウルティモ・サムライ”)が映画館に来ているから見に行こう、ミノブ、映画がよくできてるかどうか教えてよ!と言い出して、いいわねとパオラが言うが早いか、「いつ行く?明日、明日行きましょうよ!」とマリーナが言うが早いか、速攻、私も次の日の夜に映画館に行くことになってしまいました。
12月に日本にいる時、ポスターは見たけれども、まさかこの映画を見ることになるとは、、。
トムクルーズがサムライになるって??
なんだか気が進まないなあ、なんて思いながら、それでも月曜の夜は、19時半ごろからパオラの作った豆のスープと私の漬けたサーモンのオイル漬けを急いでかきこんで、なんで休日に(パオラは日曜と月曜が休日、私もそれに合わせてなんとなく月曜は休日)こんなに急いでいるのか、とふたりで苦笑しながら晩ご飯を終え、映画に向かいました。遅れそうでも3分夜道を走れば映画館です。
20時から始まるラストサムライは時間がイタリアにとっては早すぎるせいか、客席には人もまばらです。
ラストサムライ、は見た人も多いと思うのでストーリーの説明はしませんが、基本的には明治文明開花の日本に、アメリカからやってきたトムクルーズがサムライの集落に住み着くことになってサムライになっていくというもの。。映画の声は全部イタリア語に吹き替えられているので、私には理解するのが難しいのですが、大筋はそういうことのようです。
渡辺謙や真田広之、見覚えのある「こゆき」という女優さんなど、なつかしい顔が見られるというだけで、私にとってはおもしろいもの。
イタリア人にとっては、サムライ村の子供たちがハシでごはんを食べたり、木刀でちゃんばらをしたり、山脈や寺が出てくるたびに、ガールダ、ケベッロ、、「見てよなんてきれいなの」とつぶやいたり、見るものすべてが新しく、おもしろいようです。
でもやはりハリウッド製の映画なので、サムライ村が襲われる壮絶な殺しあいシーンでは、観客が息を飲んでいて、隣に座っていたパオラは「バースター」(もうやめてー)と顔をしかめていたし、そのすぐ後の「小休止タイム」(イタリアではどんな映画でも途中で小休止が入るのです。。)になった時、ほおおおっと映画館中で安堵のため息がもれていました。
サムライ村の子供たちが日本語でトムクルーズに自己紹介をした時です。なんという名前だったか忘れてしまったけれども、「シバ」ーーでしたか??ーーとスクリーン上で子供が言うと、「シバ。。」と客席の中のイタリア人がリピートし、もうひとりの子が「●丸」と自分の名前を言うと、また誰かほかのイタリア人が、「●丸。。。」と不思議そうにリピートしているのが聞こえきて、なんともおかしなものでした。日本語のイントネーションが珍しかったのでしょうか。。
ハリウッド製映画とはいえ、なかなか考えされらるものがあるなあ、と思ったのが、この映画では日本が西洋文明をとりいれて和の文化を捨てて行く分岐点が描かれているわけで、ラストシーンのサムライ軍vs日本新政府の鉄砲隊の争いなどは、まさに「和vs洋」とも言えるし、その争いに勝った「西洋化した日本軍」がその後東洋で何をしたかということとか、刀や弓や、体のキレ、動きによって人を殺していた時代から文明の利器で大量に殺す時代に変わって行ったこと、などが思い起こされました。。
今私たちは日本的な体というものはほとんど失った状態で暮らしているけれども、そいういう非文明と言われるものの中にもすごいものがあったのだよな、とかいろんなことを考えたわけです。。
「ファットベーネ」かどうか、ウソが無くできているかという質問には、この山脈はどう見ても日本じゃないし、ヨシノの山の中に熱帯雨林に生えるようなシダの木があるし、色々ケチをつけられることはあるにせよ、よくはできていると思う、と答えておきました。ただひとつ私が嫌悪感を感じたのは、ラストの戦さが終わった時に、サムライの戦いぶりに敬意を評して明治政府軍の頭領がひざまづくと、ほかの戦闘員たちもいっせいにひざまづいてしまうシーンです。
頭領ひとりがそうするところまではわかるけれども、あれだけの数の戦闘員たちが「それにならって」ひざまづいてしまう様子は奇怪とも言えて、アメリカの製作意志としてそう作ったのだろう、ということに対する私の嫌悪感か、それともある時代までは本当にそうだったという事実や、日本が今でも「上にならえ」的な国であるということに対する、わが国の本質を見せられたことに対する私の嫌悪感なのか、よくわからないけれども、あのシーンは私にとっては後味の悪いものでした。
この映画を見る3日前ぐらいに、チルコロでおじいさんたちと食べていた時、あるおじいさんが「ナガサキヒロシマ、、」と私に言いました。すると、一緒に食べていたジョルジョが聞こえないほどの小さな声で ”meglio non parlare.. Perdiamo." メッリョノンパルラーレ、ペルディアモ「(戦争については)話さない方がいい。忘れよう」とつぶやいたことが思い出されて、映画館は若向きの映画ばかりやっていて老人は行けないよ、とちょうどその時話していたこと以上に、このラストサムライにはチルコロの老人たちは絶対行かないだろう、、と思ったのでした。
ちなみに、映画の中の「とうふ」はとってもおいしそうだった。。とてもリアルでした。梅の花は造花のように見えたけれども。。
日本では「ラストサムライ」はどんな風にうけとめられているのだろうか。
「パールハーバー」の時は、ほとんど日本側からの反論というものはなかったようだけれども、今回も「本国」のわたしたちからは「拍手のみ」なのだろうか。
この映画のせいなのかどうか、今年一番のニューヨークの流行は日本料理だ、とイタリアのラジオが言っていたそうです。日本と言えば「スシ、サムライ、芸者にキモノ」、(それに禅)、なんか「それだけじゃないんだよ」って言いたい気がする。
しかし、それだけじゃない、なら「何がある?」。
ーーに答えられるようなものを作りたい、です。
コメント
パリ・テキサスを観ている友だちがいるんですね。最近、僕も何年かぶりに観ました。昔より身にしみて、年をとるのも悪くないなぁ、なんて思いましたよ、しみじみと。
最近、キューバの準備で沖縄の移民の本を読んでいます。メキシコの炭鉱で過酷な労働をしていた日系移民のなかに、現地の豆を使って味噌を作っていた人がいたという逸話には、嬉しくなりました。
脇山さんが日本に帰ってきたら、京都と九州に行きましょう。
ウノザワ
投稿者: ウノザワ | 2004年01月18日 01:36
パリ・テキサスはテレビ局勤務のブラ友人宅から借りてきました。吹き替え版なのでボンジョルノとか言ってるよ。
私も今日考えてたんだ、、今年のお味噌作りはどうしようって、、。3月に日本で急いで作るか、こうじを持ってきて4月にこっちで作るか。。イタリアでも日本でも作れたらおもしろいね。
うのさわくんは(自己紹介してなかったので)いつも私の作品を見て適切な批評をしてくれる、映画好き青年です。3月からキューバへ。
京都九州、行きたいね。
わきやま
投稿者: 脇山みのぶ | 2004年01月18日 03:03