2008年06月30日

夏の始め

月日は百代の過客にして・・娑羅双樹の花の色・・と
古典の授業で覚えたフレーズがとぎれとぎれにしか思い出せない。
こんな時、さっと手に本を取れないのがもどかしく、インターネットででも
探せば早いのだろうが、どうも気のりがせず、電話ででも
実家の母に聞こうかと思う。

何ごとも変化しないものはなく、”流れる水のごとし”?
人と人との関係も、自分も、他人も、いつも変わっていっているのだから、
今日と明日が違うように、一瞬前と一瞬後も違っているのだろう。

誰かの老いを見ることなどはその変化の流圧を肌に
感じるきっかけになるけれど、本当は、あたり前のようにそばにいる人や、自分のまわりに
あるものの中に、またはもっともっと近い、自分の中に、
ひたひたとした変化があるのかもしれない。

昨年クリスマスから新年にかけて大げんかをしたパオラと私も、
”元通りになった” わけではなくて、お互いの何かが変わって、
(少なくとも私は彼女に)よりまっすぐに向かいあえるようになった。
ずいぶんと親しかったトニーとヴェスナとは電話の一本もしない仲になってしまったけれど、
多くの年上の友人が言うように、そうなるべきだったんならそれも受け入れるべきことなんだろう。

ブラの街には約1年前に大きなショッピングセンターができて、その影響と
一般的な経済状態の悪さから小さな商店がいくつか閉じていく。
たとえショッピングセンターが
できていなくてもたぶん同じように立ちゆかなくなっていたような店ばかりだったから、
力ある他の商店(パン屋、肉屋、文房具屋、お菓子屋、手芸品屋・・・)は土曜など
順番待ちするほどまだまだ活気がある。けれど、
パンの味がどこか落ちた店があったり、いつも買っていた
量り売りハムの質が気がつかない程度にでもやっぱり変わったり、
親父が亡くなって代替わりをしたせいか
以前は置いてなかったようなできあいのパスタソースを
陳列棚に置くようになったり、
新装開店をして妙にけばけばしいいでたちの安っぽいカフェになったり、
これも、一時として同じことなんてない。

私の家では相変わらず冷蔵庫の調子が悪く扇風機はひんまがったままだし、
家電機器の面では何も進歩していないけれど、本棚をもらってきて
散乱していた読みものを整理したら、
今まで数ヶ月間も見なかったようなスペースが室内に生まれて驚いた。
一方、近所のティナおばさんから昔々もらった赤い自転車は
おかしな音をたてるようになったので、
自転車屋さんで直してもらってタイヤのゴム交換までしてもらって
また快調になった。

そうかと思えば、さし向かいの人間関係の中で、
血縁でも旧友でもない「他人」をそばに生きることによって、
ふたをしてきた「自分」があぶり出されていく。
レモン汁で書いた筆文字が炎という外力でうかびあがってくるように
(確か昔そんな実験をした)、なるべく見ないようにしていた部分まで、
形を持って現れてきてしまう。
そんなことも、変化のうちのひとつだろう。

きっと、人は他人がいなかったら糸の切れた凧のようになって、
自分の位置がわからなくなってしまうんじゃないだろうか。
誰かが地上でその凧糸をあやつっているのではなく、
きっと揺れる凧と凧の間どうしにひもがあって、その凧はまた別の無数の凧と
つながっていて、(直接つながっていなくても)その様々な凧
がしるべのようにあるから、人は、どこかへ飛んでいって消えてしまったりしない。

それはびんと張ったしばり合う糸ではなくて、
かなりゆるんだ、あそびのある「連なり」で、
そうでなければ相手が立ち位置を変えたり変化したりするのが、
びんびん糸にひびきすぎて、許せないだろう。

そんなことを思うのも、関係の中で生きる密度が濃い、ここだからだろうか。
誰ともしゃべらずに一日を過ごすこともできる都会だったら感じずにすむ
感情、同調、反発、その反応に対するまた反応。

それが街を作るなら、やっぱりこの街もいつも動いて変動しているのだ。
そしてその変動要因に私もこの人もあの人も含まれている。

いらいらして電話してくる女友達も、
病院に連れられて行った3階のおばあさんも、
そのおばあさんの行く末を私に聞くワイン屋さんも(ワインをいつも配達していた)、
私に穴の開きやすいストッキングを売った下着店も、
郵便局で汗をかきながら窓口で働くおばさんも、
交差点でぶつかりあった2台の車も・・・
夏のおいしい冷たいコーヒーも安売りの熟しすぎたパイナップルも。

そんなことを考える夏の始まりは、いつもよりじっくりと
過ぎていきそうです。

また次の季節に!

脇山美伸